坂口安吾:文学はつねに政治への反逆であるが、 まさにその反逆によって政治に協力するのである。・・・ (2)  



❤一昨日15日、LGBT法案の参院内閣委員会での審議を動画で視聴したが、最初に質問に立った、日本会議に所属する二人の自民党議員の話はまさに絵に描いたようなものであった。続く立憲の議員のまっとうな質問によってその稚拙さと悪質さが暴露されたことで多少溜飲を下げたが、くだんの二人は戦前多くの日本人が天皇制に憑かれていたように、強烈な差別思想に取り憑かれているのであろう。但し、取り憑かれているということは、“本気”であるわけではないということであり、いつでも別のものに取り憑かれる可能性があるということである。自己内省を欠いているからである。しかし、一般に政治家というのは自己内省を怠っているのではないであろうか。政治と自己内省は互いに正反対の方向に向かうものであるからである。

それにしても、例外的な政治家は存在しないのであろうか。

❤前の投稿で取り上げた「続堕落論」(1946)の中で、坂口安吾はかつて憲政の父と仰がれ軍国主義と闘った咢堂こと尾崎行雄が戦後唱え始めた「世界連邦論」のことに言及している。「続堕落論」に先立って執筆された「咢堂小論」をまず見てみると、そこでは次のように咢堂を称えている。――咢堂は部落の対立とか藩の対立とか、更に国家の対立といったような対立感情を越えて、世界を一つの国と見るべきだと説いた。志賀直哉は特攻隊を再教育せよという一文を朝日新聞に寄せ(1945.12.16)、これにより、「ただ一身の安穏を欲するだけの小さな心情」を露呈させたが、対照的に、咢堂の眼はスケールが規格外れのものであり、しかもその思考は人性そのものに根ざしている。咢堂は政治の神様と言われているが、文学の神様の志賀直哉よりよほど人間的であり、いわば文学的なのである。――

❤と言いながらも、ここからが注目すべきところなのであるが、安吾は咢堂の世界連邦論の難点を指摘する。――咢堂は部落とか藩とか国の限定を難じ、守るべき血など存在しないとしながらも、家庭という限定には眼を向けない。彼は対立感情というのは文化の低さに起因するとするが、文化が高まるにつれて家庭の姿はむしろ明確になるのであり、また(嫉妬などの)個人的な対立感情・競争意識も激化するのである。藩や国の垣根は越えることができるとしても、家庭や個人の垣根は文化が高度になればなるほど越えがたいものになるのである。このことを度外視していきなり世界連邦論へと構想を進めることは一種の暴挙であろう。――

❤たとえ国家間の対立が解決されても、個人間の対立が解決されない限り、人生の問題は解決されない。人生というのは帰するところ個々人の人生であるからである。しかしこうした「厳たる人生の実相」から、政治家や道学者はいわば必然的に眼を逸らすのである。

世界連邦論に対する安吾の批判を更に追ってゆくことにしたい。(続く)