精神の健康は、不健康きわまる状態のただ中にあって自分も危険にさらされながら、それと格闘し、克服しようとする意思力によって保たれる。-亀井勝一郎

❤「現代は軽信の時代だ」。――このように亀井勝一郎が書いたのは、今から67年ほど前(1956年1月)のことである。「日本は全体主義的な傾向をたどるときは、必ずある種のレッテルが社会にハンランする」。例えば戦時中は、「国賊」という言葉一つで人を陥れることができた。人についてだけではない。事件についてもそうである。きわめて複雑なことをも簡単に割り切り、それで納得しているつもりになるのである。「即断の傾向がますます強くなってゆくのが最近の特長」である。伝達機関が発達するのに比例して、人間どうしの理解力はいっそう鈍くなっていく。亀井はそのように嘆く。

❤亀井がとりわけ青年に期待するのは、上のような軽信や即断への抵抗力を養うことである。人間についての判断においても、事件についての判断においても、「十分の時間をかけ、疑わしいところはあくまで疑って心から納得してゆけるようなふんい気を、青年のあいだからつくりあげてほしい」。

❤では、67年経った2023年の今現在、亀井のこの願いは少しでも叶えられているのであろうか。否、であろう。特に発達したネット社会では、人を欺くことを得意とする詐欺師や山師が跋扈している。編集された動画やソースの怪しい写真も利用される。こうして老若男女問わず多くの者が、まことしやかな嘘話にコロリと騙される。人間や事件に関して心から納得するまでとことん疑う忍耐力を持たず、楽になりたい、安心したい、“真実”に酔いたいという浅はかな欲望に勝てないから、そのように軽信に陥るのである。

❤しかしこれは精神が不健康であることを示している。精神の健康は安全地帯に引き籠ることによって得られるものではない。精神の健康は軽信への抵抗、「ものごとに対する正確さへの意思」(亀井)によって保たれるのである。

 

2018年11月6日 「知性と品格」

♦ 今年の夏私は、或る学会の会員の方々に向かって、せめてこの学会だけは「知性と品格」を感じさせる学会であってほしいということを述べたのであるが、この知性と品格というのは実は互いに切り離すことのできないものである。つまり、知性はあるが品格はないということはあり得ないのである。
♦ 品格とは生き方の美しさであるとひとまず言っておこう。では、知性とは何なのか。知性があるとは、才気煥発であるとか博覧強記であるとかといったことではまったくない。知性とは疑う能力である。即ち、自分が(いつのまにか)正しいと信じていることが本当に正しいのかどうかを吟味する能力である。自分の意見の正しさを敢えて疑い吟味する余裕(謙虚さ)を持たないことこそは、思考の停止であり知性の欠落である。
♦ 但し、自己懐疑・自己吟味は信じることをやめることではない。逆である。例えばデカルトは、自分は疑うために疑うのではなくて、確信を得るために疑うのであると語っているが、疑うことによって信念は新たにされるのであり、洗練した深みのある信念、寛容な信念へと成長するのである。ということはつまり、知性はそのまま品格につながるということである。
♦ 確信のある人は美しい。信念のある人には品格がある。但しこの場合の信念は自己吟味を容れる本物の信念である。
★ 写真は「ガダニーニ」一族の末裔フランチェスコ・ガダニーニが1897年に製作したヴァイオリン。弓はE.サルトリー。たいへん弾き良い。