人間の尊厳について (5)――感情の育成

イマヌエル・カントの恐らく最もよく知られている言葉を想い起こしてみよう。

- 「私の上なる星をちりばめた天空」と、「私の内なる道徳律」、

- これら二つは感嘆と畏敬の念をもって心を満たす。

- しかも、この感嘆と畏敬の念は、件の二つ(星空と道徳律)について頻繁にまた継続的に考えれば考えるほど、ますます新たなものになり、ますます大きなものになる。

ショーペンハウアーは、あの偉大なカントでさえ哲学を単なる概念に基づく学問と定義していると不平を述べているが、哲学をどう定義するかという問題はともかくとして、カントの哲学そのものが単なる概念に基づいているとは到底考えられない。カントは例えば道徳に関して、『道徳形而上学の基礎づけ』など私が思い出す限り三冊の大著を物しているが、これらの著作はやはり件の「感嘆と畏敬の念」によって動機づけられ支持されているのである。そうとしか考えられない。良い感情がなければ知性は良く働かないのである。しかしこのことは見落とされがちである。

♦ カント研究者に限らず哲学研究者は、何よりも論の整合性を重視する。自分が展開する論はちゃんと辻褄が合っていなければならない。そうでなければそもそも研究論文として認められないのである。そしてまたカントなどの哲学者の論も、(表面上はともかくそれ自体は)整合的であると研究者は信じる。従って研究者は辻褄合わせの操作を哲学者のテキストに施す。しかし整合性という論理性ばかりに気を取られていると、肝心要めのもの、即ち哲学者をして深い洞察を為さしめ、創造的な思考を行なわしめるもの--これは例えば上で述べた「感嘆と畏敬の念」などの優れた感情である――を哲学者と共有しようとしないばかりか、それをはじめから無視してしまうことになるのである。

♦ 哲学や哲学研究に関してのみならず、感情の重要性を強調しなければならない。但し感情と言っても品のある感情であり、優れた感情である。従って根本的に重要なのは、みずからの感情を上手に育てることである。カントの言葉をもう一度振り返ってみよう。カントは感嘆と畏敬の念は「ますます新たなものになり、ますます大きなものになる(immer neuer und zunehmender)」と書いている。これが、感情が育つということ、感情が創造されるということである。

♦ 感情を上手に育てることができなければ、人間の感情は劣悪になる一方であろう。また、感情を然るべく育成することができなければ、知性を然るべく育成することもできないであろう。即ち、AIのような知性が発達するだけであろう。そしていずれの場合においても、「人間の尊厳」のようなことは空念仏になってしまうのである。