人間の尊厳について (4) ――真理の重み

♦ 人を差別する者が差別される者に人間としての尊厳を認めていないことは言うまでもないが、彼は同時に、真理というものにも尊厳を認めていないのではないか。例えば差別者が被差別者を蔑視する理由は彼にとって真理であるわけであるが、このような真理は彼の憎悪感情と攻撃欲望を増大させるものとして利用されるだけのものであって、彼にとっても他の誰にとっても真理としての尊厳を有するものではないであろう。

♦ 凡そ嘘をつくことを何とも思わない者は平気で人を騙す者であり、他の人間に人間としての尊厳を認めていないのであるが、同時に、真理を巧みに捻じ曲げたり捏造したりすることによって真理を冒瀆しているのであり、つまり真理というものに尊厳を認めていないのである。言葉の軽さは真理[本当]の軽さをよく物語っている。

♦ それでは、真理が尊厳を持つとはどのようなことなのか。――ニーチェは真理を女性になぞらえ、真理は女性の羞恥心にも比せられるべき羞恥心を持つと言う。つまり真理はヴェールを纏っていなければならないのであり、更に言うと、ヴェールを剥ぎ取られ裸にされた真理はもはや真理ではないのである。「真理はそのヴェールを剥ぎ取られてもなお真理であり続けるとは我々は信じない」(『悦ばしき知識』「第2版のための序文」)。真理はヴェールを被ってのみ真理なのである。

♦ このことが意味すること、それは、〈真理=女性〉に対して目をギラつかせるような態度を取ってはならないということ、本来の意味で「敬して遠ざける」のでなければならないということ、或る種敬虔な眼差しを向けるのでなければならないということである。つまり、この場合のヴェールは〈真理=女性〉を単に隠すものなのではなくて、隠すことによって〈真理=女性〉の尊厳を露わにさせるものなのである。

♦ 現代では客観的な事実性だけが真理の真理性の基準になっているようであるが、真理というのは本来、善や美と同様に価値的なものであり、つまりは尊厳を有すべきものなのである。

因みに、キリスト教においてはイエス・キリストが「真理」である故に、真理の尊厳ということが分かり易くなっている。 「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14章)