伊丹万作と戦争責任の問題 (1)

丸山眞男は「軍国支配者の精神形態」(1949)において、日本ファシズム支配の厖大なる「無責任の体系」を指摘したが、一方それに先立って、伊丹万作は「戦争責任者の問題」(1946)において、「騙された者の責任」を指摘した。

伊丹はこのエッセイの中で、今度の戦争で自分たちは

   「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、

   おそらく今後も何度でもだまされるだろう。

   いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいない

   のである。

と語っているのであるが、では77年経った今はどうなのであろうか。「だまされていた」といって平気でいられる国民性は少しも変わっていないのではないであろうか。

❤ まずは、あの「無計画な癲狂戦争」に対して、どうして騙された者にも責任があると言えるのかについて考えてみたい。騙されるのは正確な知識が欠けていることによるのであるが、しかし知識の欠如はこの場合、善悪が問題にならない純粋に認識的な次元のことにとどまらず、行動に結びついている。つまり騙されること(騙されて戦争に協力し参加すること)には自分の意志と感情が関与しているのであり、従ってそれは善悪を問えることなのである。というわけで、伊丹は騙されることはそれ自体が既に一つの悪であると主張する。

❤そして伊丹は更に「悪の本体」にまで踏み込む。騙された者の罪は、ただ単に戦時中に騙されたという過去の事実そのものに存するのではない。「あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。」

❤では、今、日本国民はどうすべきなのか。伊丹が言うには、戦犯者の追求ということ以上に必要なことは、「まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。」

今や終戦から80年近く経っているが、あの戦争を遠い過去の出来事と思ってはならない。終戦はまさに今現在も続いているのであり、従って戦後生まれの者も多くの文献や資料や研究を通じて、件の自己解剖と自己分析と自己改造の努力を行なうことができるのであり、また行わなければならないのである。

❤国民一人一人にその努力を促すことに、教育の重要な役割が存するのではないであろうか。