高橋和巳「孤立無援の思想」(1963)を読む (1)

アメリカが北ベトナムへの爆撃を本格化させたのは1965年であるが、それより少し前の1963年に発表した論考の最後のところで、高橋和巳は次のように書いている。

「・・・現在ベトナムで戦われている戦闘についても、アメリカ側の北爆がいつ停止されいつ再開拡大されるか、フランスの仲介が功を奏するか、中ソの対立の及ぼす影響等々を一喜一憂し、テレビのニュース解説者のごとく庶民どうしが論じあってみても、本当のところは無意味である。」

庶民どうしの床屋政談は政治的無関心よりはマシだと思われるが、実のところは意味がないと言う。それは恐らく、北爆はいつ停止されるのか云々といったような床屋政談は、(熱狂的になり易く、根本的な問いを圧倒する)情勢論だからであろう。

♦ では、どうすることが有意味なのか。

「むしろ日々泥土の内に死んでゆく兵士の死骸のみを<非政治的>にひたすら凝視すること、そしてみずからの無力感と絶望を噛みしめることのほうが有意義である。」

なぜか。そうするとによって、戦争の相とは別に或る政治の相が見えてくるからである。

「なぜならそうすることによって、少なくとも二つの体制が対立しているゆえに戦われるという<戦争の相>とは別に、二つの体制が自己自身を保存するために、〔自分に〕直接火の粉のふりかからぬ場所〔ベトナム〕とその人民を犠牲にしている今一つの恐ろしい<政治の相>があきらかになるからである。」

♦ 私は大学紛争の時以来、政治論議に対して何とも説明できない違和感と不信感を抱いてきたが、この漠然として違和感と不信感の正体が分かってきたような気がする。今、映画『プラトーン』の激戦のシーンを観ているが、現在の情勢について喧々諤々と意見を戦わせる人たちではなくて、孤独の中で「みずからの無力感と絶望を噛みしめる」ことから出発する人をこそ、真に誠実な人間として私は心底信用するのである。