ひきこもり支援――鏡になること

♦ 録画してあったひきこもり支援の番組を観た。ひきこもる人たちと20年に亘り向き合ってきた石川清氏は、NPOに属さず単独で支援を続ける一匹狼である。彼自身組織に馴染めない人なのであるが、私にとって特に興味深かったのは、自分が鏡になることを彼がみずからに課していることである。――「鏡ですね。鏡のように話し相手になって、本人が自分の気持ちを整理するっていうことを手伝うっていうのがすごく大事で。整理すれば自分が何をしたいか何をするかっていうことを再確認できますから。あくまで本人が自分で自分の人生のことは決めるっていうことが大事なので、それを強制しないっていうことが僕と彼の間の一つの彼が感じる安心感の源になっていますからね。」

♦ この場合の鏡はもちろん比喩であるが、支援者が(人格的な)鏡になることで、ひきこもる人はいきなり他人との関係に強引に引っ張り出されることを免れるが、一方で自分の内にある分けのわからないどうしようもない不安や恐怖に囚われ続けることをも免れるであろう。ひきこもる人は鏡に映る自分と向き合うことで、自分をいわば外側から見るようになり、一定の距離を置いて自分と対話するようになるであろう。もしこのようになれば、彼は自分の気持ちを整理し、いわば内発的に自分の欲求を確かめることになる。長い月日あるいは年月を要するこの変化は、欲求の生成であり、まさに実存的変容である。

♦ こうした実存的変容は、人と人との関係においてこそ生じ得る。支援者は鏡のように話し相手になるといっても、あくまでも人である。人を癒すのは人なのである。そして、当番組のタイトルに「人を癒し、人に癒される」とあるが、人を癒す者は人を癒すことにおいて彼自身癒されるのでなければならないであろう。癒す者が癒され、癒される者が癒す、これこそは如何なる損得勘定も入り込まない理想の人間関係である。

♦ こうした理想の関係を結ぶことは、ひきこもりから脱することを可能にするであろう。但しそれは社会にうまく適応することとイコールであるわけではない。社会的存在としての人間と、実存としての人間はやはり違うのである。それらは区別しなければならない。しかしかといって二つを切り離してはならないのだ。両者のつながりが我々にとって常に問題であるのでなければならない。