反省だけならサルでもできる?――言葉の威光

反省ということが言われる場合、一般に反省は後悔という感情と一つになっている。後悔の念と一つになっていない反省は反省とは言えないであろう。或ることを何となく良いことと思ってやってしまい、後になってそれは悪いことであると判断した場合、我々は悔恨の情によって良心をかき乱される、というようなことをデカルトは語っているが、反省はそうした悔恨の念と一つになっているのである。
従って、私事の場合はともかく、公人が「深く深く反省いたします」と述べた場合には、その者は懸命に自分のミスを調査・分析し、必死になって自分の過ちを償おうとするはずである。その者がサルであったりしない限り、そうしないのはおかしい。そうしないことはあり得ない。今の時代、自刃した渡辺崋山のような人に倣う必要はないとしても、反省は良心の呵責に苛まれることである故に、必然的に償いの行為を伴うのである。
そして反省は以上のようなものである故に、反省という〈言葉〉は類いなき威光を放つのである。
 
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