権力欲と良心そして幸福

 

♦ 如懿伝をようやく最後まで観終えたのであるが、特筆すべきは、如懿が皇太后をして――皇太后は最初から決して如懿の味方であることはなかったのであるが――遂にこう言わしめていることである。

 経幡を安華殿に供えながら、私は如懿に敬服しました。

 朝廷や後宮では、権勢や寵愛を巡り争いが繰り広げられています。ですが如懿は、寵愛や権勢や皇后の位に一切目もくれませんでした。ただ陛下への情を貫き、善には善の、悪には悪の報いをと願った。

 私は思うのです。〈権勢〉のために躍起になっていた私と、〈良心〉を忘れなかった如懿、どちらが〈幸福〉なのだろうかと。

 

♦ 権勢のために躍起になる者、権勢を最高の価値とする者は、実は必ずしも幸福ではない。皇太后はそのことに気づきはじめたのであろうか。それは分からないが、それはそうと、悪行の限りを尽くした挙句、すべての罪を暴かれた衛嬿婉(皇貴妃)が、死を覚悟してのことであるが、まさに権力の頂点に立つ乾隆帝にこう詰問する場面がある。

 ―陛下は男として、夫として、私の心を得られずじまいです。

 ―朕には皆が心から服従する。

 ―服従していても、心はどうでしょうか? 私はともかく、誠心誠意仕える妃はどれほどでしょう? 清廉な者がいるとお思いですか? 

 

誰もが薄々感じているように、権力だけによっては心からの服従は得られないのである。だとすると、権勢がもたらす幸福感とは虚しい優越感に過ぎないのではないか。

 

♦ 権力欲とは実は利己主義の極みであり、人を常に不満な状態に置くものなのであるが、そうした権力欲を癒す治療薬となるのが良心である。では、良心に従って生きるとはどのようなことなのか。――如懿は寵愛や権勢や皇后の位など眼中に入れなかったのであり、そしてそれ故にこそ陛下への情は他意のない純粋なものであった。また悪によって悪に報いるにしても、それは決して個人的な恨みを晴らすためではなく、後宮という世界を浄めるためであった。良心に従って生きるとは例えばこのようなことなのであるが、良心は絶えず不満や不安によって人を苛む権力欲を独特の幸福感によって癒し宥める役割をするのである。

 

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