自我は憎むべきものである―パスカル

 善と悪は対概念である。しかし私が経験したところでは、「善」は学生にとって殆どピンとこない言葉であった。ところが同じ抽象概念であっても「悪」は違う。恐らく多くの人にとって、悪は善と違って圧倒的なリアリティを持つのである。それはどうしてなのか。哲学的・神学的には善こそが最高にリアルなものなのであるが …

自死した犠牲者の痛ましい遺書が公表されたことで、(公文書を改竄させるという)自分たちの悪事を裏づける新たな事実が明るみに出されたのにも拘わらず、「再調査しない」と何ら躊躇することなしに言い切る。それはもちろん再調査されると大変なことになるからなのであるが、しかしそうである故に、「再調査しない」と言い放つことは自分たちの犯行を自白したも同然のことなのである。しかしながら権力者はそうしたことを気にも留めない。自分たちは決して逮捕されないと踏んでいるからである。

これほど冷酷で卑劣な人間はそうはいないであろう。とはいえ、自分の利益のことしか考えず、人を人とも思わぬこれと同類の人間は世の中のあちこちに存在するのではないか。我々は具体的な悪と具体的に戦うためにも、悪というものの根っこを探る努力をしなければならない。

さて、パスカルは自我には二つの性質があると言う。(なお、ここで言う≪自我 le moi≫は≪自己愛 l’amour-propre≫のことである。)

(a) 自我はそれ自身において「不正」である。というのも、自我はすべてのものの「中心」に成るからである。

(b) 自我は他の人々にとって「不快」である。というのも、自我は他の人々を「隷属」させようとするからである。各々の自我は他のすべての自我の敵なのであり、他のすべての自我に対して暴君であろうとするのである。

パスカルが言うには、我々は自我の「不快」な点(b)は取り除くことができるが、「不正」な点(a)は取り除くことができない。というのも、我々は他の人々に親切に振る舞うことによって自我(=自己愛)が他の人々を不快にすることは防ぐことはできるが、例えばそうした親切な振る舞いにおいても自我(=自己愛)の自己中心性は何の変化も受けないからである。但し我々は自我の自己中心性を取り除くことはできないが、それを「隠す」ことはできる。そして隠すか隠さないかは大きな違いであるが、より重要なことがある。それは自我の不正を憎むか憎まないかの違いである。

とりあえず以上を踏まえるとこうなる。

  • 悪の根っこは自我(=自己愛)に存する。
  • いわゆる悪人とは自我の不正を憎まない人間、「自我の内に己れの敵を見出さない」人間である。

パスカルの立場からすると、人間が人間という枠に留まる限りは決して自己中心性から脱することはできない。即ち我々が自我の不正から脱するにはイエス・キリストを信じるのでなければならない、ということになるであろう。しかし私はこうした門切り型の理解に満足することなく、稿を改めて自己中心性と自己超越性について別の仕方で考察することにしたい。