♦【承前】「ヨハネ受難曲」第1曲のテキストにある、Auch in der größten Niedrigkeit は、「たとえ辱めのどん底にあっても」、「これ以上ないほど悪い時でも」、「卑しめの極みにあられる時にも」、「低さの極みにおいてさえ」、「最大の貶めにおいてさえ」などと訳されている。これらの訳はすべて正しい。ただ、私は無理を承知で敢えて、“groß”を偉大なという意味に解して、「この上なく偉大なる低さ――これはもちろん十字架のこと――においてさえ」というように訳してみたいのである。
♦そのように訳すと、「栄光を受けておられた」につながらないので、それは無理であるとしても、ともあれ、イエスの偉大さは彼の低さにこそあると私は考える(考えたい)。即ち、イエスの低さは単なる低さではなくて偉大さであると考えるのである。(「偉大なる低さ」というのはいわゆる撞着語法である。)
例えば、パスカルは『パンセ』 Br.793において、イエス・キリストの「生涯、弟子たちによる遺棄、受難、十字架上の死」といった彼の低さ(bassesse)の中に、偉大さ(grandeur)を観るべしという趣旨のことを述べているのである。
♦門外漢として更に言わせていただくと、イエスの低さとして注目すべきは「ヨハネ受難曲」第30曲「成し遂げられた!」である。
Es ist vollbracht!
音楽(アルトのアリア)にも魅了されるが、私はこの言葉に胸を打たれる。主語は非人称の“es”である。つまり、イエスは「〈私は〉成し遂げた」とは言わなかったのである。
“Es ist vollbracht!”は第30曲の他に第29曲、32曲にも見られ、第29曲には“…alles vollbracht war…”とあるが、ともあれ、イエスは死に臨んで、「私は成し遂げた!」と叫んだりしなかった。ただ、「成し遂げられた!」という言葉を発して、首を垂れ息を引き取ったのである。
♦因みに、ヨハネ受難曲の枠外にあるヨハネ福音書17章4節には、「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」とあるが、ここでは天を見上げて、唯一のまことの神である「あなた」へ語り掛けているから、「わたしは・・・」と言っているのである。
♦イエスはこの世で一途に己れの宿命を生き抜いた。“Es ist vollbracht!”という臨終の言葉は、そうしたイエスの生き方の「低さ」の象徴である。イエスは決して、〈私は〉人類の罪を贖うという使命を果たしたなどとは言わなかったし、考えなかった。これこそ人間の業ではなくて神の業なのではないか。
このことを念頭に置いて、次にシモーヌ・ヴェイユの「真空」について考察したい。(続く)
https://www.youtube.com/watch?v=quBYEomIAZM
https://www.youtube.com/watch?v=EuzYE3E0Nfk