救いとしての受難 (4)――「筆舌に尽くせぬ慰め」(ヴェイユ)

♦「不幸における慰めはすべて、我々を愛と真実から遠ざける」と、シモーヌ・ヴェイユは書いている。

このことを一つの例で考えてみよう。

 

加藤登紀子相田みつをの「人間だもの」という詩を歌っている。

 

  つまづいたって いいじゃないか 人間だもの

  そのままで いいがな 人間だもの

  弱きもの人間 欲深きものにんげん

  偽り多きものにんげん そして人間のわたし

 

この詩はこれまで多くの人を慰め励ましてきたのであろう。しかし「人間だもの」という慰めは、我々が人間の弱さ、あるいは不幸と、まともに向き合うことを妨げるのではないか。実際、人間の弱さは、つまづいた自分を慰撫するためのexcuseとして持ち出されているに過ぎない。従って、この詩における「弱きもの人間」という陳腐な言葉は、人の心の表面をくすぐるとしても、深みも重みも持たない。要するに、この詩は自己欺瞞による自己慰撫であって、我々を「愛と真実から遠ざける」のである。

 

♦それに比べて、リストの『慰め』(動画はベアトリス・ベリュのピアノ )は何と浄らかなのだろう。この曲はそもそも不幸における慰めではない。従って、「人間だもの」と違って、「我々を愛と真実から遠ざける」ことはないであろう。それどころか、ベアトリス・ベリュが演奏するこの曲は愛と真実の光を放射しているのである。(因みに、ピアノの音の動き・表情と、全身の動き・表情とがこのようにぴったり重なった演奏をするピアニストを、私は他に知らない。)

 

♦さて、相田みつをの「人間だもの」に話を戻すと、この言葉によって自分を慰める者は果たして、卑怯な詐術によって自分に大きな危害を加えた者をも、「人間だもの」と言って慰め、その者を心から赦すのであろうか。――このことを考えただけでも、「人間だもの」という言葉が偽善であることが分かるであろう。

 

♦しかし、偽善ではない慰めは存在しないのであろうか。慰めの可能性を一切排除した絶対的な孤独の中で十字架のキリストに手を合わせるならば、どうであろうか。自分の不幸は十字架で息を引きとったキリストの不幸とは比べ物にならないとしても、人間的慰めとは別次元の慰め、「筆舌に尽くせぬ慰めが降りてくる」(ヴェイユ)のではないか。

キリストと受難を共にせよ。逆説的にも、受難を純化することが真の救いの道なのである。

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