茨木のり子「恋唄」――帰らぬ人への恋心

💎茨木のり子の『歳月』は、本の裏表紙に次のように紹介にされている。

「最愛の夫が他界したあと書き継いだ、亡夫に贈る愛の詩編

夫婦という極めて私性の強い密室を描いて、女性としての息遣いが濃厚にただよう。」

 

💎詩人は夫が他界したのちの31年間に40篇近い詩を書き溜めていたそうであるが、ここではその中の「恋唄」という詩を取り上げたい。

この詩の末尾に「矛盾の門」とあるが、相手が不帰の人となってしまうと、恋心は一段と熱くなり、従って恋心の二面性と矛盾が顕在化するのである。

 

【第1連】

肉体をうしなって

あなたは一層 あなたになった

純粋の原酒(モルト)になって

一層わたしを酔わしめる

 

【第2連】

恋に肉体は不要なのかもしれない

けれど今 恋いわたるこのなつかしさは

肉体を通してしか

ついに得られなかったもの

 

【第3連】

どれほど多くのひとびとが

潜っていったことでしょう

かかる矛盾の門を

惑乱し 涙し

 

💎第1連は肉体を失い純粋の原酒となって私を酔わせる、ミステリアスな霊的存在であるあなたを語る。恋する私の恋心もまた、理屈では割り切れない不可思議なものであり、私の「酔い」は生理的現象ではなくて、壮麗な鎮魂歌に陶酔する時のような〈法悦〉である。

 

💎第2連では第1連を受けて、「恋に肉体は不要なのかもしれない」とひとたび納得するのであるが、突然その納得を覆して、「けれど今 恋いわたるこのなつかしさは/肉体を通してしか/ついに得られなかったもの」と詠じる。あなたは今や霊的存在ではなくて、五感に感じられる肉的存在として記憶によみがえるのである。

恋心は今や時間を超越する〈法悦〉ではなくて、時間の不可逆性の意識を伴う〈懐古〉である。

 

なお、「恋わたる〔渡る〕」とは恋い慕いつづけるという意味であるが、少女時代に万葉集(特にその恋歌と東歌)を自分で繰り返し読んだ詩人にとっては、「恋わたる」というような言い回しは自然に出てくるのであろう。

 

💎第3連にある「矛盾の門」は、第1連と第2連の矛盾、即ち霊的存在であるあなたと、肉的存在であるあなたの矛盾を指す。

 

恋の二面性と矛盾は恋の本質である。