2016-09-01から1ヶ月間の記事一覧

デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ③

デカルトの懐疑は確実性に至るための一時的な方法=手段ではない。即ち、デカルトは確実性に至ることによって懐疑を乗り越え、乗り捨てたのではない。 むしろ確実性に至ることは懐疑を深めること以外のことではないのであり、言ってみれば確実性とは懐疑なの…

デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ②

神の存在は疑い得ない故に私はそれを信じるのではない。むしろ、神の存在を私は信じる故にそれは疑い得ないことになるのである。ということは、形而上学的確信においては、疑いは背景に退いているだけで、実は疑いの可能性は排除されていないということであ…

デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ①

方法的懐疑という言い方はデカルト自身のものではない。デカルトは方法的懐疑などということは言っていない。どうしてなのか。それはデカルトの懐疑は方法的懐疑ではないからである。 デカルトの懐疑は「自らを解体することを目指す方法論的手段」であると説…

拙稿「聖体と蜜蝋――信仰のロゴス〔パスカルとデカルト〕」 【7】【8】

【7】 信仰のロゴス このように蜜蝋の分析は神への熱望によって動機づけられた死の修練として純粋精神に到る。つまり心身合一を乗り越える。しかし実はこれは一方の真理である。もう一方の真理が存在する。それは心身合一は決して乗り越えられないというこ…

拙稿「聖体と蜜蝋――信仰のロゴス〔パスカルとデカルト〕」 【5】【6】

第二節 蜜蝋の分析 以上、パスカルの聖体観に哲学的考察を加えて信仰のロゴスを明るみに出したが、念のため断っておくと、筆者は何もカトリシズムに与しているわけではない。我々の立場はあくまでも哲学であり、デカルトの信仰心ということを言う場合も、そ…

拙稿「聖体と蜜蝋――信仰のロゴス〔パスカルとデカルト〕」 【3】【4】

【3】 時と永遠 十字架のイエスの記念ということが言われる[b]が意味することは、十字架上の生贄は既に終わったということ、イエスの生涯は既に終わったということである [12]。十字架における犠牲は過去の出来事であり、イエスは過去の者、既に死んだ者…

拙稿「聖体と蜜蝋――信仰のロゴス〔パスカルとデカルト〕」 【1】【2】

第一節 聖体の秘蹟 【1】 内的なものと外的なもの エリアーデはキリスト者にとって「受肉」は最高の聖体示現であるとしているが [7]、「聖体」も受肉と同様に(あるいは或る意味で受肉以上に)高度の聖体示現であると言えるであろう。そして聖体は受肉と同…

拙稿「聖体と蜜蝋――信仰のロゴス〔パスカルとデカルト〕」 序

2016.3『人文学報』 L’eucharistie et la cire : Le logos de la foi 〔Pascal et Descartes〕 聖体と蜜蝋――信仰のロゴス 〔パスカルとデカルト〕 実川 敏夫 神は不在という形でしか被造物の内に現前し得ない。 ――シモーヌ・ヴェイユ 筆者は前稿「デカルトと…

デカルトには「懐疑論」なるものは存在しない

デカルト的二元論なるものと同様に、デカルト的懐疑論なるものも、後世の作り物に過ぎない。そのようなものはデカルトには存在しないのである。 後世の哲学者や哲学研究者たちは、当然のごとくに、デカルトの哲学は「○○論」や「○○説」や「○○主義」から成り立…

デカルトにとって哲学はライフワークではなくてライフであった

真の哲学者にあっては哲学と人生とは別のものではない。自分の哲学を語るために自分の人生を一幅の絵画として描いた哲学者にとって、哲学は趣味でも仕事(職業)でもなかった。哲学は人生であった。ライフワークではなくてライフであった。このことを感受せ…

哲学と哲学研究とはあくまでも別物であるが・・・・・

哲学研究は、学問的(?)であろうとすればするほど、哲学に本質的な〈生との結びつき〉を見失い、それを切り捨ててしまう。 哲学研究者は、哲学を哲学たらしめる哲学と〈生との結びつき〉を敏感に感じ取り、それを明るみに出すのでなければならない。 もし…