拙稿「聖体と蜜蝋――信仰のロゴス〔パスカルとデカルト〕」 序

2016.3『人文学報』

L’eucharistie et la cire : Le logos de la foi 〔Pascal et Descartes〕

聖体と蜜蝋――信仰のロゴス

パスカルデカルト

                               実川 敏夫 

 

            神は不在という形でしか被造物の内に現前し得ない。

                        ――シモーヌ・ヴェイユ 

 筆者は前稿「デカルトと死の修練」[1]において、デカルトの哲学は建て前上は神への信仰から独立しているとしても、あるいは表面上は信仰に依拠していないように見えるとしても、この哲学は実は神への生ける信仰によって実質的に根拠づけられているのではないか、それは黙せる篤き信仰心によってこそ実現され得ているのではないか、従ってデカルトの秘められた信仰心を感取せずにそれを等閑視するならば、その哲学を本当の意味で理解することはできないのではないか――論語読みの論語知らずの如き「デカルト読みのデカルト知らず」になってしまうのではないか――という旨のことを述べ、そのことを「懐疑」「証明」「観念」「方法」をめぐって示したのであるが、本稿では第二省察後半におけるいわゆる蜜蝋の分析に着目することにしたい [2]

蜜蝋の分析は、それを単なる合理的な分析と見る限り、分かったような顔をすることはできるが実は分からない。たとえ理屈として分かったとしても、たとえ言葉として分かったとしても、心に沁み込むような仕方で分からなければ分かったとは言えないのである。本当に分かるためには、みずから本気で懐疑という死の修練(脱身体・脱世界の練習)を実践しなければならないのであり、そしてみずから本気で死の修練を実践するためには、己れの内の神への熱望、信仰心を自覚しなければならないのである。

ところで、信仰は魂の問題である故に論理とは無縁のものに思われるかもしれないが、しかし信仰には信仰のロゴスがある。人はふつう眼に見えるものを信じる。《Seeing is believing.》という諺があるが、例えば或る事物の存在を疑っていても、実際にそれを眼で見るならばその存在を信じるのである。しかし眼に見えるものを信じるそうした信は、信仰とは言われない。もし仮に神が様々な事物と同様に眼に見えるものであるならば、人は神の存在を信じるであろうか。否、信じないであろう。もし信じるとしても、その信は信仰とは言われない。信仰者は神が眼に見えなくても信じる、というより、眼に見えないからこそ信じるのであり、視覚を越えているからこそ、即ち認識を越えているからこそ信じるのである [3]。信仰とは視覚を越えること、認識を越えること、それ自体である。つまり可視性と不可視性との矛盾であり、現世と来世との矛盾、死と永生との矛盾である [4]

このように信仰に固有のロゴス、“信仰のロゴス”が存在する。デカルトのことを論じる前に、我々はこのロゴスを明らかにしなければならない。そこでまず「聖体」に関するパスカルの『パンセ』の一節に当たり、それに哲学的考察を加えることにする。信仰の神秘性を重んじつつも、信仰のロゴスを探究するためである。そして本稿の最終的な目的は、「蜜蝋」――正確には「個別的なこの蜜蝋」――をめぐるデカルト省察には認識のロゴスよりも深いロゴス、信仰のロゴスが働いていること、省察とは概念の構築物へと向かう道のりではなくて “信じる生” であることを確かめることである [5]

蜜蝋と聖体を科学と宗教というような通俗的な観点で見てはならないということを断った上で言うと、「蜜蝋」は「聖体」と同じく具体的な感覚的個物であるが、具体的な個においてこそ――抽象概念の如き似非の普遍ではない――真にリアルな普遍が見出され得るのである。このように個と普遍とを逆説的に結びつけるのは推論のロゴスではない。それこそは信仰のロゴスである。《l'ordre des raisons》よりも深い《ordre》が存在することを見抜かなければならない [6[

 

[1] 『人文学報』第504号、2015年

[2] 蜜蝋の分析は記号的思考と対極的なデカルト的思考の特徴をよく表わすものである。デカルトにとって、考えるということは事柄そのものに触れつつ了解すること、つまり経験である。考えるということは決して記号を操るように言葉を操ることではない。因みに、数学は人を記号に隷属させるものであってはならないとデカルトは語っている。数学は「精神を陶冶する」ためのものなのである(『方法序説』第二部)。ただ今日では、精神の陶冶ということは非常に分かりにくいものになっている。精神の垂直性が見失われてしまっているのである。

ところで、シモーヌ・ヴェイユは記号に関してこう述べている。「〔今日では〕記号(シーニュ)と意味されるもの(シニフィエ)との関係が失われ、記号間の交換の遊戯が、この遊戯自身によって、またこの遊戯それ自身のために、増えている。そして増大する複雑さは記号の記号を要求するのである」と。 Simone Weil, La pesanteur et la grâce, Algèbre

[3] 「不合理なるが故に我れ信ず」という、一般にテルトゥリアヌスのものとされている言葉がここで直ちに思い浮かぶ。

[4] 「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネによる福音書12章25節)という言葉は、死ぬことが永遠に生きることであるという逆説である。

[5] “信じる生”という言い方を、筆者は2008年7月における学会発表(東京都立大学哲学会研究発表大会)においてはじめて用いた。なお、この信じる生に関連して注目すべき点の一つは、デカルトにとって「意志」は認識の働きをする「知性」とは別物であるということである。このことは認識を越えたものが哲学の内に場所を占めることを意味するのである。

[6] 「哲学のプロであること」は「哲学者であること」とはまったく別のことである。例えばデカルト研究者は“人生の師デカルト”(Pierre-Étienne Pagès)のことをまるで他人事のように考え、デカルト的な生き方から遥か遠くかけ離れた生き方をしていながら恬然として恥じないが、このように哲学のプロは哲学者と違って、人生と倫理を己れ自身のこととして問題にしないのである(注35を参照)。

筆者はデカルトの哲学を学界という業界から救い出し、この哲学をその本来の場所である生の次元に連れ戻すことをこれまで企ててきた。生の次元に連れ戻すとは即ち、言葉を表層的・形式的に捉えることをやめて、(詩を読む時のように)言葉の奥、言葉の源を感受することであり、語られざるもの、語り得ぬものを感取することである。哲学は理論や学説の問題であるより先に生の問題であり魂の問題なのである。

何よりも必要なことは、制度化された哲学を一度相対化し、「哲学とは何か」という問題に関して根本的な洞察を行なうことである。この問題をタブー視し、如何なる根本的な洞察もなしに、ただ徒にテキストの表面的な辻褄合わせをしたり字句の詮索や概念の整理をしたりすることは、余り意味がないというだけではなくて、有害でさえある。というのも、そのことによって哲学研究はその対象である哲学から乖離し、人の“生き死に”の現実とまるで関係のない議論のための議論――これは自己粉飾あるいは自己隠蔽の役割をする――に堕してしまうからである。そしてこのことから、哲学研究の存在意義だけではなくて、哲学それ自体の存在意義もよく分からなくなるという恐ろしい事態が生じるのであるが、そのことより更に恐ろしいのは、このような恐ろしい事態をそういうものと感じない向きがあることである。