♦一昨日の22日、東京カテドラル聖マリア大聖堂にてラッソの「聖ペトロの涙」の熱唱を聴いた。
大聖堂の荘厳な建物の中を清麗な歌声のポリフォニーが響き渡り、聖なるものの美を浴びる幸福にあずかることができた。ご招待くださった方にお礼申し上げたい。
♦指揮者の淡野弓子氏による曲目解説を改めて読んだのであるが、考えてみたいと思う大きな問題が二つある。
(1) どこまでも弟子を愛するイエスの神々しい眼差しによるペトロの悔悛。
(2) 愛弟子に裏切られたイエスの人間的な、余りにも人間的な怒りと悲しみ。
♦(2) については次の機会に譲ることとして、ここでは (1) に関する考えを少し述べてみたい。
まず、曲目解説から劇的な場面を抜書きしてみよう。本曲の特色の一端をそこにうかがうこともできるであろう。
Ⅶ 主の眼差しから発せられる雄弁な言葉を眼で聴こうとしているペトロ。
主はこう言われたかのようだった。「お前の眼は傲慢だ。お前の一言は群衆の打撃より痛烈であった」と。
Ⅷ イエスの言葉である。「最も愛した弟子ペトロが、他の誰よりも酷いことをした。
お前はわたしを『知らない』と言い、私の苦しみを眼で貪った」
Ⅸ 神聖な眼差しはペトロをどれほど苦しめるだろう?
Ⅹ 主の眼差しによって溶けゆくペトロの心・・・
♦ところで、唐突であるが、西田幾多郎は『善の研究』において宗教一般について論じる中で、「真正の宗教は自己の変換、生命の革新を求めるのである。」と書いている。宗教は「自己の安心」を目的とするとよく言われるが、安心はあくまで宗教の結果に過ぎない。真正の宗教がめざすのは「自己の安心」ではなくて、「自己の変換」であり「生命の革新」である。そのように西田は言うのであるが、思うに、ペトロの悔悛はそれによって彼が本当にイエスの弟子となった真の回心であり、まさしく件の自己の変換・生命の革新に相当するであろう。
因みに、――私はかねがね宗教というのは本質的に逆説的なものであると考えているのであるが、――悔悛をもたらしたペトロの罪も、felix culpa(幸いなる罪)という逆説であると言えるであろう。
♦西田は一方また、彼が愛読したオスカー・ワイルドの『獄中記』 De Profundisを参照しつつ、「キリストはかつて世に知られなかった仕方において、罪および苦悩を美しき神聖なるものとなした」と書いている。「かつて世に知られなかった仕方」とは悔い改めのことである。西田が例に挙げているのは跪いて泣く放蕩息子であるが、私は今、キリストが美しき神聖なるものとなした例としてペトロの罪と苦悩のことを考えている。
「罪はにくむべきものである、しかし悔い改められたる罪ほど世に美しきものもない。」