三木清「語られざる哲学」(1919)   (1) 純粋ということ

三木清京都帝国大学在学中の夏休みに「語られざる哲学」(1919年)という論考をしたためた。書き出しでいきなり「懺悔」という言葉が使われるこの論考は、一高においても京大においても飛び抜けた秀才であった三木が、そうしたずば抜けた秀才としての自分自身を徹底的に批判し否定するものなのであるが、100年前の若干22歳の大学生が書いたノートとして軽視することなど到底できないものである。

以下、思いつくままにコメントを書いていきたい。

 

♦書き出しは次のようになっている。

《懺悔は語られざる哲学である。それは争いたかぶる心のことではなくして和らぎへりくだる心のことである。講壇で語られ研究室で論ぜられる哲学が論理の巧妙と思索の精緻とを誇ろうとするとき、懺悔としての語られざる哲学は純粋なる心情と謙虚なる精神とを失わないように努力する。》

 

三木は純粋ということを何度も何度も強調するのであるが、自分の中に潜んでいる虚栄心とか利己心とか傲慢といったものを見つめるためには、謙虚にならなければならず、純粋な心にならなければならない。逆に言うと、心が不純であるならば罪を罪として認めることはできないのである。つまり、純粋とは実は懺悔することそれ自体なのである。

 

シモーヌ・ヴェイユいわく。

 

「純粋とは穢れを凝視する能力pouvoirである。」