高橋和巳「孤立無援の思想」(1963)を読む (11) 

♦ 鈴木耕氏は大学生の時に当時出た『邪宗門』を読んで一気に高橋和巳の大ファンになったそうなのであるが、その鈴木氏は(森友文書改竄に関わった)佐川宣寿前国税庁長官(当時)が国会での証人喚問において証言拒否を繰り返したことに触れつつ、佐川氏の学生時代の愛読書が『孤立無援の思想』であったという報道に関して、それは本当のことなのかと驚く。佐川氏は喚問の際には既に組織から離れていた。にも拘らず、組織の首枷から自由になることができなかった。これは孤立無援の思想とは途轍もなくかけ離れた生き方なのである。

♦ 鈴木氏によれば、高橋和巳は「徹頭徹尾、組織と個の軋轢を根底において描いた作家だった」のであり、「個がどこまで組織に殉じるか、いや、個がどのように組織に抵抗するか、「孤立無援」とはそれを象徴する言葉」である。ところが、佐川氏は国会喚問において徹底的に「組織」に殉じた。「離れてしまったはずの組織から自由になれない。それはもはや「洗脳」に近いと思うしかありません。官僚とは、それほどまでに組織との自己同一化を図らなければならない職業なのですか?/このところ「官僚が壊れている」という批判をよく聞きます。それが「官僚組織」という機構なのであれば、機構改革で修復することもできるでしょう。しかし「組織」ではなく、それを構成している「個」が壊れかけているとしたら、もはや修復は困難なのではないでしょうか。」(「言葉の海へ」第27回:佐川君への手紙、2018)

♦ 組織との自己同一化ということで私が直ちに思い浮かべるのは、ナチス・ドイツの歯車として与えられた命令を従順にこなし、無自覚的にホロコーストに加担した男、アドルフ・アイヒマンのことである。いわゆるアイヒマン裁判において彼は、「自分は上司の命令に従っただけだ」とひたすら主張した。彼が自分の罪の重さを自覚しておらず、良心の呵責を何ら覚えていなかったというのはどうも本当らしい。そして恐るべきことに、アイヒマンのように組織や上司に絶対的に臣従する――それ故に悪行に対する責任を(少なくとも心理的には)免れる――くそまじめな組織人間は、佐川氏だけではなくどこにでもいるのである。[参考:映画「スペシャリスト ~自覚なき殺戮者~」]

♦ 上に見たように鈴木耕氏は個が壊れるという言い方をしているわけであるが、個が壊れるということは私なりに解釈すれば、判断放棄に陥るということである。では、どうして人は判断を放棄するのか。それは例えば組織に何か不正があったとしても、それについて真偽や善悪の判断を行なわなければ、自分は何の責任も負わずに安全地帯に引き籠ることができるからである。実は、我々は学生時代から判断放棄の習慣を身につけさせられている。試験勉強というのはクイズを解く練習である。即ち、問題用紙に書かれていることの真偽や善悪の判断を一切免除されつつ――つまり一切の責任を免除されつつ――ひたすら予め用意されている正解を見つける練習なのである。

♦ ところで、判断することは葛藤することである。もし佐川氏がみずから判断を行なう人間っであったならば、上司からの命令があった時に彼は必ず葛藤したのであり、そのことによりもしかしたら心身ともに病んだかもしれない。しかし世の中が葛藤しない口先人間ばかりになったら一体どういうことになるのであろうか。その場合には、理想というものは単なるスローガンや抽象概念にとどまるであろう。

 

「いかなる理想も、それ自体が一つの葛藤体である個々の人間を通してしか、広まりも実現もされはしない。」(「葛藤的人間の哲学」)