自分の足で立つということ

❤以前、法務大臣は死刑のはんこを押した時だけニュースになる地味な役職だなどと繰り返し発言した大臣がいたが、法務大臣はみずから死刑執行に立ち会うべきであり、更に言えばみずから死刑執行のボタンを押すべきなのではないか。敢えてこのように言うのは、人は自分が殺されることは恐れるが、人を殺すことの恐ろしさは想像しないからである。戦争に関して言うと、人は他国に攻撃されることの恐怖に怯えるが、他国を攻撃することの恐怖は想像だにしないのである。思うに、殺人の正当性について真剣に問うことは、それ自体が反戦の活力となるであろう。
❤高橋和巳は「暗殺の哲学」(1969)の第2節において、ロシア革命をめぐって、カミュの『反抗的人間』と『正義の人々』に言及しつつ、〈殺人と正義〉という問題について綿密な考察を展開している。その内容に関しては別の機会に譲ることにして、ここでは「暗殺の哲学」第2節の結びの部分にある言葉を引いておきたい。
    やはり人命を超えるいかなる思想もなく、
   罪の意識と相殺される、いかなる論理も
   なかったのである。
❤冒頭で触れた前・法務大臣のことに話を戻すと、彼が死刑を他人事としてしか考えないのは、組織と個人が分離されているからである。両者は区別されなければならないが、しかし分離されてはならないのである。
ところで、写真家の藤原新也氏は或るインタビューの中で次のような話をしている。
――日本人は個人の顔を持っていない。集団の顔しか持っていない。組織の顔を持っているけれども、自分個人の顔を持っていない。日本人の人相がどんどん悪くなっているのは、自分個人の顔が消えていっているからである。
――今の社会では、自分を殺して生きている子が多い。子供は幼稚園のころから、自分を殺して生きていく。いい子で生きていく。学校でもいい子で、家庭でもいい子。自分を押さえて生きている。しかし写真を撮ることで、自分の隠しているものが全部出てしまう。その時はじめて本当の自分はこうなのだということに気づいてしまう。
❤しかし今の社会においては、組織や学校に圧迫されることなしに、個人の顔を持ち、本当の自分を自覚することは如何に難しいことか! 大人にとっても子供にとっても、「自分の足で立つ」ということは如何に困難なことか!
私は藤原氏の近著『祈り』(2022)の中の次の文と写真に、深い悲しさと一つになった感銘を受けた。
「さまよう」
渋谷スクランブル交差点。
家出少女。
身の回り一式のトートバッグが両肩に食い込んでいる。
だが、何か変。
この後ろ姿、髪は少々荒れているものの
整体を施す余地がないほど足はちゃんと地面をつかみ、
躰はすっくと垂直に立っている。
多分と思う。
垂直に立っているからこそ家出をしたのだ。
歪んだ家から家出をしたからこそ垂直に立っているのだ。
悲しい自立だが、
少女は自分だけの力で精一杯生きようとしている。
だから整体を施す必要のないほど
自分自身の力で身体矯正をしているということ。
        ――2008年 渋谷(東京)