単純に普通の人として

❤人の内面は顔に出るという話はよく耳にするが、ポートレートというのは絵画にせよ写真にせよ人物の内面を表現するものである。優れた画家あるいは写真家は、表層的な表情の奥に潜む内面を見抜くことができるのである。ところで、内面を表現するということは、眼に見えないものを見えるものにするということであるが、それは例えばカーテンを開いて今まで見えなかった外の景色を見えるようにするということではない。そうではなくて、眼に見えない内面を眼に見える外面と合体させるということである。

 

❤このようなことは静止しているポートレートにおいてこそ起こり得る。動画では考えにくい。動画というのは見えるものを次々と水平に並べるものであるが、静止しているポートレートは見えるものを限定することによって、平面に奥行きを――即ち見えないものの次元を――穿つのである。

 

❤ところで、写真家の藤原新也氏は香港の民主活動家、周庭さんの内面を次のように見抜いた。

「・・・だが何度も会っているうちに、彼女はイデオロギーによって動いているのではなく、単純に普通の人として、間違ったことを間違っていると言っているだけなのだということがわかった。

その彼女の背後に巨大な強権国家が迫り、今にも襲いかかろうと体勢を整えていることも彼女は知っているはずだ。だがその不安はおくびにも出さなかった。そこに日本の女の子とは異なる大陸方面の芯の強さを感じた。・・・」(『祈り』「戦士の休息」)

 

イデオロギーとは一定の立場であり、思考と行動のいわば絶対的な大前提となるものであるが、周庭氏は反政府デモの雨傘運動などにおいて、「イデオロギーによって動いているのではなく、単純に普通の人として、間違ったことを間違っていると言っているだけ」だということは、

イデオロギーを正当化し強化する〈魅力的な真実〉を捏造して自分の勢力の拡大を図ったりしないということ、専ら良識を働かせ良心に従って思考し行動するということを、意味するのである。

 

❤最後に述べておきたいのであるが、〈魅力的な真実〉がネットによって容易に拡散される時代に生きる我々は、画家や写真家に倣って人の人相をじっくり観る習慣を身につけなければならないであろう。〈魅力的な真実〉に取り憑かれないようにするためである。