関係の条件としての孤独 (1)


❤三年間の刑期を終えて出所した男が、汽車で偶々隣り合わせになり手まで握らせてくれた女の家を探したのであるが、辿り着いたのは小さな娼家だった。

男は今まで牢獄に繋がれていたことを打ち明けていないこともあり、自分がどのような人間に見えるのかが気になり、女に色々尋ねるのであるが、例えば自分の眼について――

(男)「悪こすい眼をしていませんか。」

(女)「いえ、ちっとも、まるで子供みたいにぽかんとしていますわ、汽車の中でもこの頃の人にまるで見られない、のんびりした眼付だと思いました。」

(男)「世なれない眼付をしているというんですね。」

(女)「そうよ、田舍からきゅうに出ていらした方のようよ、こんな所に遊びにくるような人ずれがしていないわ。」

(男)「僕はまたずるい人間に見えそうで、気が引けてならないんです。」

(女)「あたしね、人様の眼ばかり見ている商売をしているもんですから、あんたを初めて見たときも、田舍から出ていらしたばかりの方だと思いましたの。」

・・・・・・

(男)「君は何故そんなに僕のことを信用するのかね。」

(女)「だってあんたは初めから商売女を扱うようになさらないもの、すぐ一緒になってくれなんてそんなこと言う方ははじめてだわ。」〔原文は旧字旧仮名〕

 

      室生犀星「汽車で逢った女」(昭和29年)

 

❤男は出獄人であり風貌も劣る自分に社交辞令ぬきに率直に向き合ってくれる女に心を動かされ、女の方も娼婦という卑しい身分の自分を最初から対等な人間として真っ当に扱ってくれる男に好意を抱く。二人は互いを信用する。

 

❤小説には書かれていないことを自由に述べることにすると、男は純真さを保ち、女はその純真さに感応する。二人は少なくとも芯の部分では世俗的な人間関係に毒されていないのだ。ということはつまり、二人は孤独というものを知っているということなのである。

男は出所後、妻にも友人にも突き放され孤独に陥ったわけであるが、やみくもに孤独から逃れようとするのではなくて、孤独を受け容れた。というより、そもそも男は――女もそうであるが――人間は所詮孤独であるということを人生のどこかの時点で達観した人間なのである。そうである故に、二人は世俗的な価値尺度に囚われずに麗しい関係を結ぶことができるのである。