優劣の呪縛からの解放――身体の論理[5]

♦ 昨日は淀橋教会にて「声楽アンサンブル・オリエンス」の第10回演奏会を楽しんだ。4つのパートが奏でる美しいハーモニーと共に、私の席のすぐ間近にいらしたソプラノの透明な歌声が、いまだに耳と心に残っている。プログラムはウィリアム・バードの曲のみで構成されていたのであるが、4声のミサなど演奏された合唱曲は、恰も人間の<肉声>の美――つまりは人間の肉体の美――の極みを目指すものであるかのように感じられた。因みに、人間の肉声の美というのは、どんなに技術が進歩しても、決してオーディオ機器には生み出すことのできないものである。それは要するに、人間の肉体は決して機械ではないからであり、また機械はあくまでも機械であるからである。

♦ ところで、久しぶりに肉声の歌声に抱擁されて改めて気づいたのであるが、我々は聴くという行為から普段遠ざかってしまっているのである。つまり、眼と同様に耳も、ほとんど情報把握のための道具に成り下がってしまっているのである。メルロ=ポンティは、「真の哲学は世界を見ることを学び直すことである」と『知覚の現象学』の序文で書いているが、我々は聴くことも同様に学び直さなければならないのではないか。

♦ 少し面倒な哲学的な話をすると、見ることを学び直すとは、見ることの起源・はじまりorigin★に回帰するということなのであるが、それは即ち、見ることが〈見えないものまで見る〉ことである根源的な次元に回帰するということなのである。分かり易い例で言うと、我々は自分の背中を直接見ることはできないが、しかし見るということは根源的には、自分の背中のような見えないものまで視界に入れること(これは見えないものを想像することでは断じてない!)なのである。ということはつまり、見るということは局在的でありかつ遍在的であるという自己超越性を有するということなのであるが、そのことを我々は絵画から、即ち画家の眼差しから、具体的に感じ取ることができるであろう。

 ★因みに、英語のoriginの語源はラテン語のoririであるが、

  オリエンスoriensという言葉は元々このoririの現在分詞である。

♦ 見ることと聴くことを同列に置くことは決して許されないが、しかし聴くことも根源的には、聴こえないものまで聴くこと、即ち聴こえる声と同時に、その背景を成す聴こえないもの=沈黙の声をも聴くことであると言うことができる。私は今回の演奏会で、会場全体に絶えず沈黙が響きわたっていることを経験したのである。

♦ 最後に強調しておきたいのであるが、見えるものと見えないもの、聴こえるものと聴こえないものが、不可分な関係にあることは、見るものと見えるもの、聴くものと聴こえるものが、いわば含み合いの関係にあること、即ち支配-被支配の関係にあるのではないことを意味するのである。