関係の条件としての孤独 (3)――孤独と表現 「物が真に表現的なものとして 我々に迫るのは孤独においてである。」

❤以前、NHKで「つながり孤独」という番組があったのを覚えている。調べてみると、

ツイッターFacebookなどのSNSが急速に普及するなか、“多くの人とつながっているのに孤独”という、“つながり孤独”を感じる若者が増えている。・・・SNSがなぜ孤独を生み出すのか?・・・」という内容の2018年の番組だったらしい。

ところで、私の見方はずいぶん異なる。私の見るところでは、

① つながっているのにも拘らず孤独なのではなくて、(本当の意味で)孤独でないからつながれないのである。

SNSは孤独を生み出すのではなくて、(本当の意味で)孤独であることを妨げるのである。

 

❤真の孤独とは一人ぼっちで寂しいということではない。真の孤独は賑やかなのである。

以下、茨木のり子の「一人は賑やか」という詩の後半部を引用してみる。

 

一人でいるのは賑やかだ

誓って負け惜しみなんかじゃない

一人でいるとき淋しいやつが

二人寄ったら なお淋しい

 

おおぜい寄ったなら

だ だ だ だ だっと 堕落だな

 

恋人よ

まだどこにいるのかもわからない 君

一人でいるとき 一番賑やかなヤツで

あってくれ

 

❤真の孤独とは、自分が自分自身と十全に向き合うことである。そして自分自身を凝視する者にとってこそ、世界は精彩に富むpittoresqueものとなるのである。

哲学者は次のように言う。

 

「自己に対して盲目な人の見る世界はただ一様の灰色である。自己の魂をまたたきせざる眼をもって凝視し得た人の前には、一切のものが光と色との美しい交錯において拡げられる。」(三木清『人生論ノート』)

 

❤私は散歩をしていて、道端にひっそりと咲く名も知らぬ小さな可憐な花に出会う。花は私に呼びかけ、私は花の呼びかけに応える。花は自分を見てくれて感謝しているかのようである。このように、私は孤独の境地においては、植物とさえつながり、植物とさえ対話することができるのである。つまり孤独は表現の次元を拓くのであり、我々は孤独であることによって孤独を超えることができるのである。

 

「物が真に表現的なものとして我々に迫るのは孤独においてである。そして我々が孤独を超えることができるのはその呼び掛けに応える自己の表現活動においてのほかない。」(同書)