関係の条件としての孤独 (4)――人間の弱さ

❤1949年7月15日に起こった三鷹事件の死刑囚・竹内景助(1967年に東京拘置所にて45歳で病死)の冤罪を立証し訴える書物は、昨年出た石川逸子『三鷹事件/無実の死刑囚/竹内景助の詩と無念』(2022)まで含めて何冊かあるようであるが、ここでは冤罪という観点からではなくて、人間の或る弱さ(人間誰しも多かれ少なかれ抱えていると思われる弱さ)という観点から、竹内死刑囚の人となりに少し触れてみたい。

 

❤私がここで参照するのは、加賀乙彦『死刑囚の記録』(1980)である。加賀は大学卒業後、1955年から57年まで東京拘置所に精神医として勤めたのであるが、20代のこの若き監獄医は、ゼロ番囚(大体が強盗殺人犯か強姦殺人犯)に対して、精神医として囚人の異常な精神状態を眺めるだけではなくて、更に、医師と患者という関係を捨てて、相手と人間どうしの付き合いをし、そのことを通して囚人の内面に入っていったのである。

 

❤1957年に竹内景助(1955年に最高裁で死刑確定)の房をみずから訪れた時も、やはり同じ人間として面会した。竹内は1951年の二審で死刑の判決が下された直後から、ずっと犯行を全面的に否認し続けたのであるが、その前までは、頻繁に、しかも大きく供述を変えていた。そのことが加賀の関心の的だったのであるが、加賀は単刀直入に質問をするようなことはしなかった。話題はニンニクや白菜の漬物のことから自然に家族のことへと移っていき、竹内は5人の子供のひとりひとりについて思い出話をしたりした。そしてそのうち、自分のことについて語り出す。

 

――おれは弱い人間なんですね。弱いから人をすぐ信用してしまう。党だって労組だって、大勢でお前を全面的に信用するといわれれば、すっかり嬉しくなって信用してしまった。それがあやまちの元でした。けっきょく、党によって死刑にされたようなもんです」。〔因みに竹内は非・党員〕

 

――〔共産党系の〕弁護士の言うとおりに噓の自白をしたんです。おれは弁護士にだまされたんです。しかし、考えてみればだまされた自分も悪い、その点ではもうジタバタはしないつもりです。

 

❤加賀は1957年1月に一人の共産党員が竹内のところに面会に来た際の接見表を、改めて注意深く読んだのであるが、そこには例えば次のような竹内の言葉が見られる。

 

――きみたちは、みんな、おれを死刑にしておきながら、党ばかりを可愛がっているじゃないか。おれは真実を語っているだけだ。きみらみたいに、党ばかりを考え、一人の命なんかより党を大切にする考えは白豚だ。

 

加賀は竹内の厖大な身分帳から、「彼の精神がいつも他人との関係において揺れ動く」ということに彼の弱さの特徴があることを読み取った。

 

❤しかし、他人との関係において精神が揺れ動く可能性、即ち自分が無実であることが分かっているのに、あれは共犯であったとか単独犯であったとかと供述する可能性は、実は大なり小なり誰にでもあるのではないか。そのような弱さは、誰しも多かれ少なかれ抱えているのではないか。

思うに、このような弱さを免れるためには、政治的な次元を突き抜けた真の孤独の境地を知らなければならないであろう。欲望の打算や感情の戯れから解放された真の孤独――これは孤高ではない――こそは、真の友情と信頼を育むことができるのである。

 

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私は2022年9月20日 の投稿で、去る1月12日に亡くなられた加賀乙彦氏に言及しつつ、孤独と連帯について次のように書いた。

「日本が右傾化して再び戦争をはじめようとした時に、熱狂的ではないとしても気骨のある連帯を作って最後まで挫けずに抵抗することができるのは、イデオロギーを同じくする人たちではなくて、他人と共有し得ない「自分一人の思想や芸術を守ろうとする」真に孤独な人たちなのだ。蓋し、そのような人たちは尊敬の念の混ざった共感を互いに抱き得るのである。」