高橋和巳「孤立無援の思想」(1963)を読む (14)  --美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。

❤「苛政猛於虎也」(ひどい政治は虎よりも猛々しい)という孔子の言葉が儒教の経典『礼記』にあり、高橋和己は当該箇所を書き下し文の形で引用しているのであるが、ここでは難しい漢文は避けてあらすじだけ紹介すると――

孔子がとある土地を通りかかったときに、墓の前で泣いている婦人に出会った。孔子は従者に、婦人に泣いている理由を尋ねさせると、舅、夫、子供が虎に襲われて死んでしまったということだった。孔子が「なぜ虎に襲われる危険な土地を去らないのか」と尋ねたところ、婦人は「よその土地に移って、ひどい政治に苦しむよりはましだから」と答えた。 https://manapedia.jp/text/3762

❤この故事に因んで、高橋和己は凡そ次のように語る。--個人的論理と天下の政治とが一貫したものとして統一されるべきであるという〈古典的態度〉からいえば、たった一人の人間であっても目の前で何かを嘆き悲しんでいれば、それは政治の責任であった。しかし政治というのは本来、そうした古典的態度とは異なる。本来政治は掛け替えのない個々人ではなくて、群れを問題にするものなのであり、従って別に苛政でなくても、個々人の特殊事情などは問題にしないのである。いや、それどころか、〈代議制多数決原理〉ともなれば、個々の苦悩や哀歓を、はっきりと大義名分をもって無視し抑圧し得るのである。--

❤件の古典的態度ということで、私は1970年頃に毎週観ていてた大岡越前のテレビドラマを連想したのであるが、現代の政治は大岡裁きの場合とは対照的に、具体的な個人ではなくて群れを問題にするのであり、また政治を行う方も、代議制多数決を原則とする限り、person(個人・人格)ではなくて非・パーソナルな数の力なのである。とすれば、政権与党が例えば名古屋入管で死亡したウィシュマさんの人権を蔑ろにするのも或る意味当然のことである。

❤去る4月21日に国会前で行われた、入管難民法改正案に対する抗議の模様を動画で観ていたところ、ジャーナリストの志波玲氏がインタビューで、「法律や制度が問題であるというより、人権とかどうでもいいと思っている、そういうメンタリティーこそが一番問題なのだ」と答えていたが、実は、政治権力に向かって人権を語っても、それは馬の耳に念仏であり豚に真珠なのである。数の力で政治を行う、非・パーソナルな政治権力にとって、人権というものはせいぜい漠然とした抽象観念でしかない。つまり政治にとっては、小林秀雄の有名な言葉を利用して言えば、「花の美しさ」は存在しても、「美しい花」は存在しないのである。

❤もちろん、例えばであるが、人権意識を有する野党政治家は人権を考慮して入管法改正案を廃案に追い込むことができる。しかし政治が為し得ること、為すべきことはそこまでである。政治に対して過剰な期待を抱いてはならない。最も重要なのは人々の生き方である。確かに、軍事費増強とか原発回帰(推進)とかといった狂気じみた政策を、今の政治とは別の政治によって変えさせることは不可能ではない。しかし政治が戦争という狂気に突き進むことを未然に防ぎ、世の中を“根本から”良くするためには、文学を含めた芸術が真にパーソナルな創造的活動として、また非政治的あるいは(政治を超えたという意味で)超政治的な活動として、政治に対抗する形で活発に行われなければならないのである。