高橋和巳「孤立無援の思想」(1963)を読む (7) 


♦ はじめに、フェイスブックの友達からいただいた、政治家に関する貴重な言葉を引いてみたい。

「政治の世界というものは希望がないように見えますが、個人の良心が政治に抗うという事が奇跡的に起きると、本当に多くの人が救われるように思います。」

「政治の世界では権力のピラミッドの構造ができて、どうしても個人は大雑把に括られて蔑ろにされがちですが、その中で抗う人(政治家)という存在は極めて人間的で、良心と政治の両立を切り絵のような形で作っているアーティストのようなものだと思います。」

♦ 政治を良心と一致させることは、政治というものの本質からして無理である。しかし政治と(良心のような)政治を超えたものとを交わらせることは可能なのであり、従って政治家であるか否かに関わらず、我々にとって重要なことは、政治と超政治とをどのような仕方で交わらせるかということなのである。私は或る小さな組織の運営に当たっている中で様々な困難に出会い、つくづくそう思う。

♦ さて、高橋和巳は「孤立無援の思想」の冒頭で次のように問う。――

一人の青年が、山奥で紅葉した樹々や、それらをいっせいに揺らす風や、渓谷を流れる水の清冽な響きに包まれながら感慨にふけっているとして、「その青年に対して自然の美に心を奪われるよりは政治問題について考慮すべきだと薦めうる確固たる論理が本当にあるのだろうか」、と。

結論だけ言うと、政治は自然の美的鑑賞などの人間の営みを中断させる権利を実は何も持っていないというのが高橋の答えである。

♦ ロシア軍のウクライナへの侵攻以来、或る意味で仕方のないことであるが、政治論議の傲慢というか跳梁跋扈が目に余るものになっているが、政治論議というものはそれ自体が政治的である(そうでないように巧みに装っているとしても)こと、そして政治は(審美性とか倫理性といった)超政治を駆逐し弾圧してならないということに、我々は気づかなければならない。繰り返すと、大事なことは、政治と超政治とをどのように交差させるかということなのである。

♦ 高橋はまた、政治の只中において文学的=非政治的なものが出現することがあるという話もしているが、これについては改めて取り上げることにする。