高橋和巳「孤立無援の思想」(1963)を読む (8) 

♦ 今現に起こっている戦争を直ちに停止させること、あるいは今後戦争が起きないようにすることは、政治の役目である。それができるのは政治だけである。ただ、戦争という、しばしば発症する人類が罹患している不治の病い、人類にとって最も深刻な宿痾を“根治する”ことは、政治の役目ではない。

♦ 戦争という病いを治癒することができるのは、打算のない真の友好であるが、政治は人間関係や国際関係を調整するとしても、真の友好関係という人格的 personal な関係を作り出すことは政治の管轄ではない。しかも、政治は必ず権力闘争を生み、必ず意見対立を生むという点で、敵対の源であるとさえ言える。

♦ ところで、「孤立無援の思想」には、「数人の友人たちと夜の街を歩いていて、ふいに理由もなく暴漢にとりかこまれ、なんくせをつけられるという経験は誰しも一度や二度はもつものである。」――というふうにして切り出される話が出てくる。夫人によれば、高橋は学生時代に実際そのような経験をしたらしいが(高橋たか子高橋和巳の思い出』「出会い」)、ともあれ、高橋がこの話によって示そうとすることは、人間は情勢論的にのみ動くのではないということである。深夜の街で愚連隊ふうの者たちに喧嘩を仕掛けられたら、情勢判断のことなど吹き飛んでしまい、「内に秘めた各自の絶対志向」(絶対とは情勢に相対的ではないということである)が噴出するのである。

♦ この話で注目すべきは、被害者側の友人同士は、世に言う意味での思想的立場がほとんど同じであるか、あるいは同じ政治団体(例えば共産党)に属していても、各人の非情勢論的な咄嗟の反応は大きく分かれると言われていることである。即ち、或る者は三十六計を決め込み、また或る者は徒労に終わることが分かり切っている説得を始め、また或る者は激怒するあまり自分の体力を顧みずに乱戦の中核になり、また或る者は悲哀の表情を浮かべつつ殴られるにまかせてしまう・・・というように、各人の態度は千変万化なのである。

♦ 因みに、夫人は自分と夫との間に割り込んできた多種多様な友人知人の中に、5、6人自分が尊敬する人がいたと述べた後、こう加えている。「いま尊敬という言葉を使ったが、年上の男性については、頭のよさであれ美的洗練であれ気性の高潔であれ人格の温厚であれ、何らかの尊敬の情が感じられない男性は、私にとっては全く無縁なのである。ましてや世間の女たちと話をすることは何と苦痛であったことか。認識の度合、価値観、感受性の質など、何から何まで違うのである。」(「住んでいたアパート」)

♦ 話を戻そう。私が思うに、件の友人同士の間に真の友人関係があるとすれば、それは彼らが政治的立場を同じくするからではない。逆説的であるが、多岐に分かれる「内に秘めた各自の絶対志向」の相においてこそ、即ち非政治的な相においてこそ、真の友人関係というものがあり得るのである。そこで今の政治家たちに言いたい。こうした非政治的=非情勢論的な相が、政治の背景を成しているのでなければならないのである、と。