高橋和巳「孤立無援の思想」(1963)を読む (2)

♦ 1963年は、「核兵器不拡散条約」(NPT)が国際連合で採択された年であるが(発効したのは1970年)、その年に発表した件の論考の中で高橋は、原爆はアメリカが保有する量だけで地球上の文明を十数回破滅させることができ、いずれ完成されるソビエト側における百メガトン級の水爆も同様の破壊力を有するということに言及しつつ、核兵器の存在を前提する「平和共存論」というものが矛盾したものであることを指摘している。それはどのような矛盾なのか。

♦ 或るごりごりの合理主義者は常々亡霊の存在を否定していたのであるが、執念深くも死んでからも、亡霊など存在しないことを証明するために、亡霊の存在を信じる蒙昧な人々の会合の席にみずから亡霊になって現われた。――高橋はハイネの『ハルツ紀行』にあるこのような寓話を引き合いに出している。これは簡潔に言い換えると、幽霊の存在を否定するために幽霊の存在を肯定する、という話であるが、核兵器の存在を前提する平和共存論、即ち戦争を抑止するために核武装するという考え方も同様に、(戦争を否定するために戦争を肯定するという)矛盾なのである。

♦ ところで、情勢論とは、その時その時の情勢に臨機応変に対応する考え方のことであるが、①核兵器の存在を前提する「平和共存論」は情勢論の最も端的な表れであること、②情勢論は、原爆は何のために作られたのかという問い、――あるいは原爆を保有し改良し続ける国家が平和の理念を掲げるのはまさに自家撞着なのではないかといった、非情勢論的な本質的・根本的な問い――を圧倒してしまうこと、③そして、政治は今現在の現実の勢力関係から離れては政治としての意味を失う故に、政治的思考の基礎には常に情勢論が位置することを、高橋は指摘している。

♦ さて、「核兵器不拡散条約」がまるで効力を発揮していないことから、核兵器を全面的に廃止する「核兵器禁止条約」が2021年の1月に正式に発効したのであるが、我が国は唯一の被爆国であるのにも拘らず、広島選出の議員が首相になってもなお署名も批准もしていない。日本政府のこうした対応は情勢論以外の何物でもないのであるが、では核兵器を全廃するこの条約そのものはどうなのであろうか。それは核兵器不拡散条約が一向に実効性を持たないという情勢に応じるものである限りは情勢論的なものであるが、何か別の要素を含んでいるのではないであろうか。

♦ この核兵器禁止条約は情勢論的次元と道徳的次元とが交差するものなのではないであろうか。否、そうでなければならないのではないであろうか。