坂口安吾:文学はつねに政治への反逆であるが、 まさにその反逆によって政治に協力するのである。・・・ (3)  

最近、マイナンバーカードの不具合が次々と噴出し、そのことによって政治家の人間的レベルの低さが改めて露出してしまっているが、自分の権力を守ることに汲々としている大臣をはじめとする与党政治家だけでなく、勢力拡大を喉から手が出るほど欲している野党政治家にも、決意というものがまるで感じられない。つまり言葉にいわば凄みがないのである。また、政治家の言葉はたばこの煙のごとく空気よりも軽い。思想が人間性の自発的探求を源泉としていない限り、政治家がどれほど身振り手振りを交えて大声で叫んでも、一定範囲の人には響くとしても、思想に重みが生じることは決してないのである。

❤さて、安吾が言うには、戦後、世界連邦論(世界単一国家論)を唱え始めた咢堂こと尾崎行雄は、ついに、「日本人だのアメリカ人などと区別を立てる必要もなく、誰の血だなどと言う必要もない、守る必要のある血などあるはずがないのだ」と放言するに至ったが、この言葉はいささか凄みを漂わせている。ただ、咢堂の夫人はイギリス人――イギリスで生まれ育った英子セオドラ尾崎【写真】――であったので普通とは少し事情が異なるが、もし自分が純粋に日本人であり、日本人の妻と娘を持つならば、日本人だのアメリカ人などと区別を立てる必要などない・・・・・と言い切るには、悪魔的な眼が必要であり、妻と娘を人身御供に捧げるくらいの決意がなければならないのである。

❤咢堂の場合は悪魔の助力を必要としなかったかもしれないが、それにしても、守る必要のある血などあるはずがない・・・・・といった言葉は、「人間の一大弱点を道破」していることは間違いない。“ナショナル・アイデンティティ”、“国民意識”というのは、人間の一種本能的なものなのである。そして安吾は言う。「共産主義者などは徒に枝葉の空論をふりまく前に、先ずこの人性の根本的な実相について問題を展開する必要があった筈だ。咢堂の世界連邦論がこの根柢から発展していることは、一つの思想の重量であって、日本の政治家にこれだけの重量ある思想の持主はまずないだろう。この重量は人間性に就ての洞察探求から生れるもので、彼の思想が文学的であるのも、この為だ。」   

                                                                                                     



「咢堂小論」(1945)

❤政治思想が文学的であるということは、それが人間性の探求を源泉とするということである。但し、文学者や文学研究者の政治的発言に必ず文学性があるかというと、そうとは限らない。高橋和己のような人の場合は別にして、私が今まで経験した限りでは、文学者の政治的発言はたいていイデオロギー性が支配的であって、それ自体に深い文学性は感じられないのである。