高橋和巳「孤立無援の思想」(1963)を読む (3)

♦ 先日、日本維新の会共産党の或る議員の懲罰動議衆院に提出したというニュースを耳にした。何かと因縁をつけて人を威圧し攻撃する人間はどこにでもいるが、権力欲や支配欲によって己れの自我を幻想的に巨大化させた者が他人を踏み潰す、そうした行為が国政の次元で露骨に為されるというのは驚きである。己れの惨めさに気づかない厚顔無恥な政治家には、是非みずからの行ないを省みてほしい。

♦ とはいえ、自分のしていることは正しいか否かという自問自答において、人はしばしば都合のよい理屈を捻り出して他人を騙し自分をも騙す。しかも特に

権力者にとっては、自己正当化はいわば至上命令なのである。ただ、自分のしていることは正しいか否かではなくて、美しいか否かという形で反省するならば、少し事情が異なるかもしれない。美は感覚的なものである限り、屁理屈を並べることによって美を捏造することはできないからである。あなたは自分のしていることは美しいと感じるかと、政治家に問うてみたいものである。

♦ しかしそれはそうと、肥大化した自我の持ち主に欠けているものは何なのか。それは言うまでもなく良心であるが、道徳とは少し別の角度から言うと、そのような者に欠けているのはみずからの実存の自覚である。そして加えて言うと、みずからの実存を自覚しない者が、他者の実存を気遣うはずはないのである。では改めて、実存とは何か。

高橋和巳は言う。

「限りある生の時間のうちに生き、一回性という動かしえない制限をもつ個別者は、無限の<順応>体として自分を訓練する必要はない。」

実存とは、有限な時間を一度限り生きる個別者の存在、各々にとって掛け替えのない個別者の存在のことであると、とりあえず言うことができるが、ところでここで注目したいのは順応という問題である。確かに総体としての人類は、自然や人間社会のみならず、みずから意志的に変革した情勢であっても、そこに順応しなければならない。しかし個別者はその必要はないのだ。ほんの一つか二つの役割であっても誠実にそれを果たすことができればそれで十分なのである。そのように高橋は言う。要するに順応ならぬ非-順応こそが彼にとっての問題なのである。

♦ 百万人が前に向かって歩きはじめているのに、その隊列の後尾でただ一人でうずくまって泣く、そういう脱落者(非-順応者)の話は印象的である。情勢論にかまけている者、統計的にしか人間を考えない者の視界には決して入らない、「各個人の生死や喜怒哀楽」といった掛け替えのないものは、掛け替えのないものである限り絶対的なものである。

しかし忘れてはならない。人はどんなに頑張っても独りで生きることは決してできないのだ。我々は <孤独と共存> という哲学的問題に高橋と共に立ち入らなければならないであろう。