意見と判断

♦ 悪事を暴かれていよいよ追いつめられた時に、このように宣った人間がいた。

「悪いことをしたと思わないが、謝れと言えば謝る」と。

この人間の気持ち悪さは決して忘れることができない。少し分析してみると――

①「悪いことをしたと思わない」というのは第一に、自己欺瞞(自己正当化のためにいわば無意識に自分で自分を欺いて自分は悪くないと思い込むこと)であると考えられる。自己欺瞞が成功している限り、「悪いことをしたと思わない」というのは(微妙ではあるが)本当である。従って「謝れと言えば謝る」というのは逆に相手の誤解を責める脅しである。

②「悪いことをしたと思わない」という文句は第二に、謝罪を免れるための意図的な術策であると考えられる。悪いことをしたと思わないとわざわざ明言している人間に、謝罪してほしいと思う者はいないからである。人が求めるのはあくまでも罪を認めることである。

♦ 注目したいのは、①と②のいずれの場合においても、件の人間は自分が悪いことをしたかどうかについてみずから判断していないということである。彼は卑劣にもみずから判断することを回避しているのである。「悪いことをしたと思わない」というのは「判断」ではなくて単なる「意見」に過ぎない。もし判断であるならば、「謝れと言えば謝る」とは決して言わずに、誤解を解くことに努めるであろう。

♦ さて、判断とは単なる合理的認識ではない。「善を求める心」が判断の根本的条件である。

小林秀雄は言う。

 「善を求める心は、各人にあり、自ら省みて、この心の傾向をかすかにでも感じたなら、それは心のうちに厳存することを率直に容認すべきであり、この傾向を積極的に育てるべきである。」

この場合の善とはいわゆる快楽ではない。従って、美味しいものを求める心と同じように、善を求める心を自分の中に感じることは難しいかもしれない。しかし、「善のイデア」を説いた古代ギリシャプラトンをはじめとして、哲学者たちはこの善という形而上学的なものについて複雑な議論を展開したが、そうした哲学者たちにしても、自分の中に善を求めるシンプルな心を強く感じていなければ、そもそも善について論じることはできなかったのである。

♦ 善を求める心のある者は、決して自分の判断に固執したりしない。自分の判断に何か間違いがあることに気づいたならば、直ちにそれを修正する。求めるのは善であって、己れの名声や権勢ではないからである。それに対して、判断を回避する者は、自分の意見の間違いを正すどころか、頑迷に自説に固執しそれを補強することしかしない。デカルトの言うように、確信をもって歩むことと意固地であることとは違うのである。より正しい道を見出すことができれば、いつでもそちらを選ぶ心構えでいるからこそ、確信をもって安心して歩むことができるのである。