齋藤芳弘 著『嘘つきシンちゃんの脳みそ』――脳科学と〈こころ〉

♦ 本書は絵本風の小冊であるが、目立つのは、「かわいそうなシンちゃん」というフレーズが各左頁の一行目にルフランの如くに繰り返されていることである。底抜けの嘘つきに対して、著者は「かわいそう」という見方しかしない。ところで、最後の頁にこうある。

「かわいそうなシンちゃん。恐ろしいのは新型コロナウイルスではなく、

嘘つきシンちゃんの脳みそだったのです。」

シンちゃんが悪質で巨大な嘘を積み重ねながら平然としているのは、その恐ろしい脳みそのせいなのであり、それ故にこの稀代の大嘘つきはひたすらかわいそうなのである。

♦ 本書の各左頁には「脳科学者からの推察」というコラムが設けられているのであるが、著者が嘘つきシンちゃんに対してかわいそうと言うだけで道義的批判のようなことを一切行わないのは、脳科学の観点に立っているからであろう。心の動きは実は脳という物質の動きによるものであるとするならば、道義的批判といったものはそもそも成り立たないと思われるのである。しかしどうなのであろうか。

♦ もし仮に善行も悪行も或る脳内メカニズムに還元されるのであれば、倫理性という心に固有の問題とされるものは解消されてしまうように思われる。従って、「一部の哲学者などからは、『心の動きがすべて物質の働きによるものであるはずがない』という拒否や抵抗もある」(中野信子サイコパス』)。しかし私は拒否したり抵抗したりする必要はないのではないかと考える。科学は基本的に因果的説明を事とするが、科学的説明はあくまでも科学的説明に過ぎないのであって、それ以上でもそれ以下でもないからである。

♦〈科学的真理〉と〈生の真実〉を、同じ土俵に乗せてはならない。それらは別次元のものとして両立する。というわけで、私は脳科学の成果を受け容れる一方で、嘘つきシンちゃんに対して倫理的批判を行なうのである。

♦ 生の真実に関することとして美的経験についてひとこと触れておこう。地動説を信奉する科学者にとっても、太陽は東の地平線から登ってきて、そして最後に西の地平線に沈んでゆく。どうしてもそう見える。科学者はどうしてそのように「見える」のかを説明することもできるが、しかしそれでも、朝日は水平線からゆるやかに昇ってくるのであり、科学者はその神々しい美しさに図らずも手を合わせるのである。美的経験は科学的実験とは別次元のものなのである。

「貴下は山部赤人の『田子の浦』の歌を詠まれる時に、

富士山の地質学的構造について考えられますか。」

内村鑑三キリスト教問答』)

http://www.kangin.or.jp/learning/text/poetry/s_D1_02.html

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