終活と、生に対する傲慢

♦ 若い人にとっては例えば受験に成功するか失敗するか、就職に成功するか失敗するかは、決してどうでもよいことではない。それは多くの若者にとって切実な問題である。ところで、私は何年か前に終活という言葉をはじめて耳にしたのであるが、終活とは人生の終わりのための活動の略だそうである。しかし〈就活〉はともかくとして、〈終活〉というものに私はどうしようもなく違和感を覚えるのである。

♦ 後に残された者に迷惑をかけないようにするとか、旅行などやり残したことを死ぬ前にやっておくなどということは、言われるまでもないことであるが、この程度の忠告はまあ許せる。しかし、終活は「死と向き合って」最後まで自分らしい人生を送るためのものであるとか、「死という人生のゴールを意識する」ことで残りの時間を有効に活用するためのものであるといった賢しら心は、商売とはいえ許しがたい。

♦ というのも、私が理解する限りでは、終活は「死と向き合う」とか、「死という人生のゴールを意識する」という言葉とは裏腹に、人を死へと開くのではなくて、むしろ死の手前、生の内側に閉じ込め、この世の生にいっそう執着させるものであるからである。若い人が人生の成功者を必死に目指すのは或る意味で当然であるとして、老人までが同じでは困るのである。

♦ 死を遮断し、死を殺すことは、死に対する傲慢に他ならない。死の探究は太古の昔から今日に至るまで実に様々行なわれているが、間違いなく言えることは、死は「分からないもの」であるということである。ソクラテス的に言えば、我々はこの「分からないということ」が分からなければならないのである。何よりも必要なのは、こうした死に対する謙虚さである。

♦ 死に対して謙虚になり、死へと開かれたものになるならば、我々はおのずと生に対して謙虚になり、(芸術活動などにおいて)生の神秘を感得しつつ生をより深く味わうことができるようになるであろう。