自由の諸相――(3) 孤立と開放性

♦ 人は誰でも自由を望む。圧制から自由になること、辛い仕事や不治の病や社会の不当な差別、等々から自由になることを望む。こうした自由=解放への欲求は非常に切実なものであり、分かり易いものである。が、こうした解放という意味での自由とは別種の自由があるのではないか。

デカルトが神の存在証明において用いている論理を想い起してみよう。私は死すべき有限な存在であるが、しかし単にそれだけではない。私は己れの有限性をひしひしと感じるのである。しかしこのように己れの有限性を覚(さと)ることは、有限性がそれと対比される無限性に私が触れているからこそ可能なのではないか。というのも、逆に有限な者がその有限性の内に閉じ込められているだけであるならば、その者は己れの有限性を明確に自覚することはできないからである。死すべきものである己れの有限性が肺腑にしみることは、永遠で無限なる者に〈触れている〉、あるいはそれに〈開かれている〉からこそ可能なのである。――デカルトの論理は以上のようにパラフレーズすることができる。

♦ さて、私は今、薫風香る武蔵野の山道を独り歩いている。鳥のさえずりは聞こえるが人の気配はまったくない。私は煩わしい俗世間から解放されて自分とだけ向き合い、孤独を噛みしめているのである。この孤独は、ずる賢くしたたかな人間が蔓延る俗世間の人間関係を回避しただけの孤独ではない。そうではなくて、「人は独りで死ぬ」(パスカル)と言われる場合の、決して乗り越えることのできない根源的な孤独である。しかしこうした孤独を明瞭に感じ取るためには、「人間にとって重要なのは関係だけだ」(サン=テグジュペリ)と言われる場合の根源的な共存に〈触れている〉のでなければならないのではないか。孤独は孤独がそれと対比される共存が無ければ意味を成さないからでである。

♦ 私は山道から他の山々や下界の村落を見渡す。が、それはもちろん一定のパースペクティブに従った風景である。従って例えば向こうに見える山の裏側は私には見えない。ところが、実はそれは或る意味で見えているのである。但し或る意味で見えていると言うのは、私が以前から山の裏側を知っているからでも、それを想像するからでも、あるいは推測するからでもない。山の裏側は山の頂上や山の向こう側にいる人であれば見えるわけであるが、実際にそのような人が現にいなくても、件の根源的な共存によってそれは私に見えているのである。私は他の人間に根源的に〈開かれている〉のである。というわけで、山の裏側は見えないものであると同時に見えるものである。即ち私の眼差しは局所的であると同時に遍在的なのである。

♦ 私はあくまでもこの掛け替えのない自分である。しかしその一方で、私は他者に開かれている。他者に開かれているということは、私は他者を支配したり他者によって支配されたりしないということである。

私は孤立的であると同時に開放的であるというこうした両義性の上に、現実的な自由は成り立っているのではないであろうか。