パースペクティブ

♦ 内海信彦氏のfacebookへの投稿(9月26日)にこうある。――

「(・・・)自分の考えを入れない、主体的に思考しない若者が、高校教師や、予備校講師になり、大学の講師や、教授にもなれる日本とは、全体主義の既成事実化を教育の場で達成した、世界的にも類例を見ない完成形の全体主義国家です。(・・・)若者に絵を描かせると、パースがない、児童画を描く子がほとんどです。親や教師が子達の上に描いてあります。パースとは遠近法ですが、絵画専門バカが言うパースではありません。パースとは、希望の描き方です。希望の虹に向かう道を描くことです。パースは、主体的な思考を行う若者が築き上げる社会の描き方です。」(以上引用)

♦ さて、私の部屋の窓からは6kmほど離れた西新宿の高層ビル街がよく見渡せる。もし都庁まで歩くとしたら1時間20分ほどで行けるそうであるが、高層ビル街の更に向こうの方に行くには当然もっと時間がかかるであろう。では、純白の雲がたなびくあの青空まで歩いて行くとしたら・・・。このように、私の眼差しは1時間先の未来にも、1日先の未来にも、1年先の未来にも、更には無限に遠い未来にさえも及んでいるのである。――とはいえ、私は何も恣意的に空間的距離を時間で表してみたわけではない。我々は社会生活の必要上、あるいは学問研究の必要上、時間を空間的に表象せざるを得ないのであるが、実は時間それ自体は空間的なものではない。むしろ逆に、空間自体が根源的には時間的なものなのである。絵画を見て時間を感じたり、音楽を感じたりすることは、何ら不思議なことではないのである。

♦ ところで、上に見たように、私の眼差しはこの現在から近い未来に、そして遂には無限に遠い未来にも及ぶのであるが、このような眼差しは基本的な主体的行為であり、基本的な主体的思考であると言える。つまり、主体性が存在するということと、世界にパースペクティブが存在するということと、過去-現在-未来という時間性が存在するということは、同じ一つのことなのである。「児童画」にはパースペクティブが欠けているとすれば、それは要するに児童は未だ主体性=時間性をぬきにした生き方をしているからである。

♦ 希望とは私の眼差しである。希望とは未来を先取りする私の眼差しである。未来を先取りするということは、(時間を空間的に表象する場合のように)未来を現在化することではない。そうではなくて、この現在から、来るべき現在へと超越することである。希望とはこの超越の運動であり、この超越の緊張である。希望は現実逃避ではなくて、現実の現実性そのものである。