デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 2

私は在外研究で、ジャン・マリー・ベイサード教授(パリ大学第十大学)の授業に参加しつつ、教授の主著デカルトの第一哲学:形而上学の〈時間と整合性〉』をノートをとりながら繰り返し繰り返し読んだ。

その間、考え続けたのはもっぱら「デカルトの循環」という問題であるが、この問題を考え詰めてゆくうちに、メルロ=ポンティにおける循環の問題を「再発見」した。

パリでのデカルト経験なしには、2000年における『メルロ=ポンティ 超越の根源相』の出版にいたる道のりはあり得なかったと言える。

 

ただ、パリでのデカルト経験といっても、私はベイサードなどの代表的なデカルト研究者の言うことを鵜呑みにしたわけではない。

また、権威あるデカルト研究史に依拠してデカルトを考えたわけではない。

そうした(アカデミズムを基準にすることはしないという)姿勢を、私は帰国後年々強めてゆき、森有正小林秀雄デカルト考などを熟読しながら、デカルトの哲学を「生のあり方としての哲学」として読む読み方を確立していった。

そしてそれは同時に、「デカルトの循環」の深層(真相)に迫ることでもあった。