優劣の呪縛からの解放――身体の論理[3]

♦ 件のオーディションに集まった若いバレエダンサーたちに向かって勅使河原三郎氏は、(悲しみを表現するには)「それっぽくするのではなくて、本当にそうなるまで、動かないでやってみな。感じるまで感じて、それが外に出てくるように」と指導していたのであるが、或るインタビューの中では次のような言い方をしている。――どの作品にも大まかな構成の流れはあるが、固定された振り付けはない。とはいえ、リズムに合わせて成り行き任せに踊るのではない。むしろ厳密で明確な意思がダンサーに求められる。「テーマに対して自分は何を感じ、何を聞いているのか、その起点Originをまず客観視する。その準備ができれば、おのずとそのように体は動きます」。

♦ では、「起点Originを客観視する」にはどうすればよいのであろうか。即ち「厳密で明確な意思」を得るにはどうすればよいのであろうか。そのために必要なのは或る種の謙虚さである。「自分をゼロにして白紙の状態でその場に新鮮に立ち向かえる謙虚なダンサーが、良いダンサー」なのだと氏は言うのである。逆に、自分は難しい振り付けも完璧にこなすことができるという慢心が、つまりは優越意識・競争意識が、その場に新鮮に立ち向かうことを妨げるのである。自分をゼロにすること――これはシモーヌ・ヴェイユの言う「真空を受け容れること」に通じるかもしれない――は、優劣の呪縛からの解放に他ならない。

♦ ところで、起点Originと言われるものは、ダンスの眼に見える運動の全体を貫くものでありながら、それ自身は眼に見えないものなのであるが、それはレオナルド・ダ・ヴィンチが『絵画論』の中で語っている「蛇行線」のようなものではないであろうか。「各々の生物は蛇行する固有の仕方を有している」というダ・ヴィンチの言葉を受けて、ラヴェッソンはこう言う。「デッサン芸術の秘訣は、一つの中心波が幾つもの表面波となって展開するように、・・・一本のうねうねした線が対象の拡がり全体を貫いて伸びゆく、その独特の伸び方を発見することである」と。但し、対象の拡がり全体を貫いて伸びゆく一本のうねうねした線は、眼に見える線のいずれでもない。しかしそうした眼に見えない蛇行線が、見えるものを見えるものたらしめているのである。

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