人間の尊厳について (3)

♦ 少し前に出た本であるが、青木理安田浩一『この国を覆う憎悪と嘲笑の濁流の正体』の中で、安田氏は「中立の傍観者を決め込むメディア的感性」に関して次のような話をしている。――2016年に沖縄県高江の米軍ヘリパッド建設現場で、機動隊員が、抗議運動をする市民に向かって「この支那人が」「この土人が」と発言したのであるが、その事件の翌日、Abema TVからコメントを求められた時、高江がどのような歴史を背負ってきた場所であるかを説明し、件の発言は明確に差別であると述べた。ところがテレビの司会者は、沖縄は差別されているというが、みんな沖縄が好きじゃないですかと反論した。

♦ しかしこのように、沖縄が差別されていることと、沖縄が観光地として人気があることとを同列に置いてしまうのは、歴史という観点を外し、沖縄と「本土」との関係という視点を外すからに他ならない。このように歴史的・政治的な観点を取り払って中立の傍観者を決め込むならば、件の「土人」発言も、荒々しい言葉と行動で迫ってくる反対派と、それに対していきり立つ機動隊がぶつかった末に起きた偶発的な事件であることになってしまう。つまり「どっちもどっち」という話になってしまうのである。――

♦ さて、中立の傍観者と言えば、青木氏は、「無知と無関心」の殻に閉じこもることが罷り通るような構造が、一貫して戦後日本の底流に(政治的に)築かれてきたのではないかと指摘する。この点に関わることであるが、青木・安田の両市は翁長雄志氏に起こった或る出来事に注目している。――生粋の保守政治家であった翁長氏は、2013年1月にオスプレイ配備撤回を求める日比谷公園での集会に参加し、そのあと銀座でのデモ行進の先頭に立ったのであるが、その際デモ行進する人たちはヘイト団体によって薄汚い罵声を浴びせられた。そのことで当然翁長氏は、「中国の工作員」「売国奴」などの言葉を投げつけたレイシストに対して腹を立てたのであるが、本当に腹を立てたのは、何事もなかったかのように通り過ぎていく東京の人々を見た時だった。――

♦ しかし実は、無知と無関心の殻に閉じこもっているのはこうした道行く人たちだけではない。隣国や在日コリアンに、そして沖縄に、まるで他人事のように平然と罵声を浴びせる者たちこそは、無知と無関心の殻に引きこもっているのである。

♦ 思うに、我々に必要なのはソクラテス流に自分自身を吟味することであろう。自己吟味ができるということに「人間の尊厳」はあり得ると考えられるのである。

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