人間の尊厳について (6)――権力と孤独

♦ 森友公文書の改ざんを無理やり強いられ、しかも改ざんの責任を一身に背負わされたことで自死した赤木俊夫さんの妻、雅子さんが起こした訴訟で、国は認諾というこの上なく卑劣なやり方で逃げ切りを図った。ウイグル族への中国の人権侵害を声高に非難しながら、実は人権とか人間の尊厳について本気で考えているわけではないということが、こういうところでもばれてしまっているのであるが、ともあれ権力を持つ者の無責任さにはあきれるばかりである! 権力者はその権力の大きさに応じて己れの言動に対する責任が重くなるはずなのであるが、今の権力者はその権力を悪用して己れの罪をもみ消すことによって、責任を逃れようとするのである。

♦ 責任というのは倫理の問題であり道徳の問題であるが、しかしここで道徳や倫理の議論を持ち出しても何か隔靴掻痒の感がある。責任に関しては、取るか取らないか、取る覚悟があるかないか、それだけが問題なのである。人から責任を追及される前に、はじめから全責任を負う覚悟が権力者にはなければならない。但しいくら「なければならない」と言っても、覚悟というのはまったく個人的な問題である。責任を取るという覚悟は、権力や名声や身分や富から切り離された、まったき孤独の場所において為されるのである。

♦ もし覚悟が為される孤独の場所、個的実存の場所を自分の内に有していれば、権力者は堕落や腐敗を免れるであろう。そして人との真の交流ということを、また人間の尊厳ということを、理解する足掛かりを得るであろう。

♦ ところで、高橋和巳は退場する覚悟ということを語っていた。

「・・・ みずからの役割の終った時の<退場>の覚悟をもっておれば、パワー・バランスの論理とその濁流に自らを見失う悲惨はなくてすませるのである。」 (「孤立無援の思想」1963年)

退場の覚悟を持たず、己れの権力を拡大し維持することしか考えていない者は、「パワー・バランスの論理とその濁流に自らを見失う悲惨」を味わいつつ一生を終えるしかないのである。

因みに、大学紛争の時、京都大学文学部助教授の職にありながら全共闘への支持を表明していた高橋は、1970年に京都大学を辞した。そして翌71年に癌のため39歳の若さで亡くなった。