根本的両義性(12)――音楽と狂気

♦ 昨夜は「Folia スペイン、ポルトガル15世紀から伝わる情熱と狂喜の音楽」と題された演奏会に出かけた。プログラムの最後の方、コレッリのヴァイオリン・ソナタ「ラ・フォリア」の前あたりで男性のフラメンコ・ダンサーがサプライズ的に登場し会場は大いに盛り上がったが、数々の奥ゆかしくもの悲しい楽曲の演奏も素晴らしかった。

♦ さて、フォリアとはイベリア半島に起源を持つ舞曲のことだそうだが、演奏会を聴きながら思ったのは、フォリア=狂気は特定の音楽に限らずどの音楽にも本質的なものなのではないかということ、そして演奏家の才能というのはまさに「狂気する才能」なのではないかということである。狂気を感じさせない演奏はつまらないのである。しかし私がここで言う狂気とは如何なる狂気なのか・・・ 

♦ G.チェスタトンが言うには、狂人とは理性を失ってしまった人ではない。狂人とは理性を除く一切を失ってしまった人である。つまり狂人とは感情や感覚といったもの一切を失ってしまい、理屈や論理しか無くなってしまった人なのである。因みにチェスタトンは詩と理性を次のように対比している。「詩は正気である。というのも詩は無限に広がる大海原を楽々と浮遊するからである。ところが理性は、この無限の海を渡り切って無限を有限にしようとする。結果、精神は疲労困憊してしまうのである。」

♦ しかし私が言う狂気はもちろんチェスタトンが言うのとは別の狂気である。それは感情を排する狂気ではなくて、逆に感情を生み出す狂気である。それは不毛な狂気ではなくて豊穣な狂気である。プログラムの2曲目、ルバイリ「フォリーのパッサカイユ」の歌詞には、「私は狂気、私だけが唯一、皆に喜びも優しさも快楽ももたらすことができるのです」とあるが、この言葉にかこつけて言うと、私の言う狂気は我々が通常経験するのとは異なる感情をもたらす狂気であり、つまりは音楽を生み出す狂気である。

♦ しかし音楽を生み出す狂気である以上、それは論理性と無縁ではあり得ない。私は先に「狂気する才能」という言い方をしたが、演奏家は(あの高橋美千子さんにしても)実際に発狂するわけではない。しかしまた狂気を装うのでもない。演奏家は狂気を「表現する」のであり、そうである以上、演奏家は必然的に何らかの論理性に依拠するのである。

演奏家の狂気する才能とは狂気を表現する才能であり、即ち「狂気と論理」あるいは「感情と論理」を即興的かつ創造的に媒介し噛み合わせる才能である。円運動においては下降運動は上昇運動を引き起こし、上昇運動は下降運動を引き起こすが、優れた演奏においては、狂気と論理あるいは感情と論理は、そうした上昇運動と下降運動のように互いに引き起こし合うのである。