人間の尊厳について (1)

スリランカ人のウィシュマさんが施設で亡くなったことに関連する文書を名古屋入管が開示したのであるが、何と1万5千枚余りの文書のほとんどが黒塗りであったとのことである。例の赤木ファイルも最近まで国はその存否さえ明らかにしなかった。一体どこまで人を愚弄すれば気が済むのかと言いたくなるこのような卑劣な振る舞いは、今日では枚挙にいとまがない。

♦ ところで、国=権力が愚弄しているのは上の場合であれば亡くなった方やその関係者であるが、しかし実はそれだけではなく、――というよりそれ以前に、権力は凡そ人間というものを愚弄しているのではないか。差別について言うと、差別する者は差別される側の者をリスペクトしていないことは言うまでもないが、実はそれ以前に、(自分自身をも含めて)凡そ人間というものをリスペクトしていないのではないか。そしてこのことにこそ、差別の最深の根っこが存するのではないか。

♦ ともあれ、もしすべての人間が人間であるというだけで尊厳を有すると本当に考えられているのであれば、件の愚弄や差別は決して起こり得ないわけである。では、人間の尊厳ということをどのように考えたらよいのであろうか。私はクリスチャンではなく、また如何なる宗教の信者でもないが、人間の尊厳という問題を、「人間はみな同じ神から生まれた」という形で捉えてみたい。すべての人間は人間から生まれたのではなくて神から生まれた、しかも同じ神から生まれたという人間観が、もし真にリアリティを有するならば、すべての人間は人間であるというだけで同じく尊厳を有するということが真にリアリティを有することになるのである。

♦ さて、ストア派の人々はキリスト教に先立って、人間はみな同じ神から生まれたのであり、人間はみな兄弟であると語っていた。しかしストア派のこの教えはキリスト教のように広まることはなかった。というのも、ベルクソンが言うには、ストア主義というのは本質的に哲学であるからである。哲学であるとはこの場合、概念的思考であるということである。人間はみな同じ神から生まれた云々という定式は、概念的に思考された理想の定式なのであり、それ故にそれは論理的説得力を持つとしても、魂から魂へと伝播して行くことはないのである。

♦ それにまた、概念的理想は真のリアリティを持ち得ない。実際、ベルクソンが言うには、ストア派の代表的な哲学者であり第16代ローマ皇帝であったかのマルクス・アウレリウスでさえ、自由人と奴隷の間の障壁あるいはローマ市民とバルバロイの間の障壁を、低くすることが可能であるとは判断していなかったのである。(続く)