〈思想の自由〉と〈良心の自由〉

♦高市政権は憲法改正に強い意欲を示しているとのことである。

私は憲法(学)を勉強したことがないので、通説と異なることを言うことになるかもしれないが、例えば19条の条文にしてもいろいろ考えさせるものである。

 

★憲法第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

Article 19. Freedom of thought and conscience shall not be violated.

 

1931年の満州事変以来、権力者たちの狂気じみた戦争への野望は、天皇の命令というお墨付きを得ることで、一切の批判を許さないものであった。

人々から「思想の自由」を奪い、人々の人権を蹂躙するこうした絶対主義への反省が、この19条の背景の一つになっていると考えられる。

 

♦では、戦後の日本人は「思想の自由」を然るべく行使しているのであろうか?

「思想の自由」というのは、どのような思想を持とうが、どのような信念を持とうが、どのような意見を持とうが、恣(ほしいまま)にできる、ということではない。

注目したいのは、条文には「思想及び良心の自由」とあること、つまり思想の自由は良心の自由と組になっていることである。

まずはみずからの良心に目覚めなければならない。そしてみずからの良心が如何なる束縛も受けずに自由であるように、常に修練を積まなければならない。思想の自由は、こうした良心の自由とセットなのである。良心の自由のないところでは、思想は自由ではあり得ない。

 

♦ところで、良心の自由が試されるのは、刻々新たな様相を呈する具体的な〈現実〉との向き合いにおいてに他ならない。

 

因みに、森有正は敗戦後5年経った1950年に、〈現実〉について次のように書いてある。

「かのファシズムが世界を吹きまくった時、いかに多くの人が、虚偽の現実と真の現実とを取り違え、自己と他の多くの人々とを損なったことであろう。我国も決して例外ではなかった。多くの人々は、眼前に迫って来る現実の力に押されて、自ら戦争への道を突進し、あるいはそれに便乗した。ヒトラーの協力者もムソリーニの協力者もそうであった。

現実的であるとは、現実の力に属することではない。現実の中に、抑圧と不合理と不公正とを感得してそれを克服する方向に自己を決意することである。それは最も厳格な自己検討と現実に対する深く鋭い把握力と不屈とを必要とする。そこに人間の最大の責任が置かれなければならない。」

――森有正『自由と責任』

 

(この『自由と責任』は1955年に出版されたものであるが、これは1950年に別の出版社から『思想の自由と人間の責任』というタイトルで出版された書物と同じ内容のものである。)