デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その11 「考える葦」(中)

パスカルは「考える葦」に関する断章の中で次のように語っている。

(a) 〔自然の中で最も弱い葦に過ぎない〕人間を押しつぶすのに、宇宙全体が武装する必要はない。蒸気や一滴の水だけでも、人間を殺すのに十分である。

(b) しかし宇宙が人間を殺すとしても、人間は人間を殺すものよりも尊い noble であろう。なぜなら〔考える葦である〕人間は自分が死ぬこと、宇宙が自分より優勢であることを『知っている』からである。宇宙はそうしたことについて何も知らない。

♦ しかし、自分が死ぬことを知っていることが、どうして人間が尊いものであることの理由になるのであろうか。我々は子供の時から、親や教師に教えられて、あるいは書物やメディアを通じて、あるいは身近な人も含めた多くの人の死に接することで、人間は誰でも死ぬものであり、従って自分もいずれは死ぬということを「知っている」。しかしパスカルの言う「知っている」はそのような知ではないであろう。というのも、そのような知(言葉の上の理解)が、人間が noble なもの――尊いもの、高邁なるもの――であることの理由であるとは到底思えないからである。

♦ そこで、自分が死ぬことを知っているという知を、自分の弱さを感受し認めること(前回9/5の記事を参照)として捉えてみよう。そうすると或る弁証法が発動するのである。――どうして人間は自身の弱さを感受し認めることができるのか。それは自分自身の中に何か〈弱さを越えたもの〉があるからであり、それを基準にして自身を見るからである。どうして人間は自分の惨めさを鋭敏にかつ確乎として感じ取ることができるのか。それは自分自身の中に何か偉大なものがあることを鋭敏にかつ確乎として感じ取るからである。惨めさは偉大さの証しなのだ。卑小な人間は自分の惨めさを感受し認めることができない。

♦ 人間とは死すべき mortel ものである。しかしそれ故にこそ〈死を越えたもの〉でもある。人間とはこの矛盾である。(続く)