デカルトにとって哲学はライフワークではなくてライフであった

 

真の哲学者にあっては哲学と人生とは別のものではない。自分の哲学を語るために自分の人生を一幅の絵画として描いた哲学者にとって、哲学は趣味でも仕事(職業)でもなかった。哲学は人生であった。ライフワークではなくてライフであった。このことを感受せずに、哲学を人格性を欠いた単なる理論として扱う――即ちモノとして扱う――形式的・分析的なデカルト読解は、たとえ完全に整合的なものであっても隔靴掻痒の感を免れ得ないであろう。デカルト研究という学問の必然的盲点である〈語られざるもの〉あるいは〈語り得ぬもの〉を感じ取り、それに準拠しなければならない。語られた言葉をいくら並べ替え組み立て直してみても、恣意的な再構築を繰り返すことにしかならないのである。近代的な学問理念を妄信してはならない。【拙稿「デカルトと死の修練」】

 

ここで言うライフ(生)とは、心身合一の生であると共に、身体から区別される魂の生である。――否、より正確に言うと、心身合一的である故に純粋な魂であり得る生であり、死によって限界づけられている故に死を越え得る生である。なお、この逆説は我々にとって恒常的なテーマである。

哲学と哲学研究とはあくまでも別物であるが・・・・・

哲学研究は、学問的(?)であろうとすればするほど、哲学に本質的な〈生との結びつき〉を見失い、それを切り捨ててしまう。

哲学研究者は、哲学を哲学たらしめる哲学と〈生との結びつき〉を敏感に感じ取り、それを明るみに出すのでなければならない。

もしそうすることができるならば、哲学研究は哲学の “創造的再現” であることになり、それ自身が哲学的なものとなるであろう。