デカルトには「懐疑論」なるものは存在しない

デカルト的二元論なるものと同様に、デカルト懐疑論なるものも、後世の作り物に過ぎない。そのようなものはデカルトには存在しないのである。

後世の哲学者や哲学研究者たちは、当然のごとくに、デカルトの哲学は「○○論」や「○○説」や「○○主義」から成り立っていると看做してきた。確かに、そのように看做さなければデカルトの哲学を論じたり説明したりすることは容易ではないであろう。しかしそうであるからと言って、そのように看做してよいというわけではない。

デカルトの哲学は「○○論」や「○○説」や「○○主義」から成る合成物ではない。従ってデカルト的二元論と同様にデカルト懐疑論などというものもデカルトには存在しない。しかしもちろん懐疑は存在する。まず指摘すべきは、デカルト的懐疑は単なる理屈の問題ではないということである。単なる理屈の上の懐疑、言葉の上だけの懐疑は、デカルトとは無縁のものである。デカルト的懐疑は決して(懐疑論者の懐疑のような)ポーズではないのである。それは自分と世界を変容させる真の懐疑なのである。

もちろん省察には理路がある。しかし理路を辿るだけでは十分ではない。理路を整理するだけでは十分ではない。むしろ理路の源泉となっているものを読み取らなければならない。つまりデカルトをして言葉を語らしめている無言の声を我々も聴き取らなければならない。これが先日述べた〈生とのつながり〉を感じ取り明るみに出すということである。

デカルトの懐疑が意志的なものであることはしばしば指摘されてきた。では、懐疑の意志を発動させる最も深い動機は何なのか。デカルト的懐疑とは根本的には何なのか。

 

デカルトにとって哲学はライフワークではなくてライフであった

 

真の哲学者にあっては哲学と人生とは別のものではない。自分の哲学を語るために自分の人生を一幅の絵画として描いた哲学者にとって、哲学は趣味でも仕事(職業)でもなかった。哲学は人生であった。ライフワークではなくてライフであった。このことを感受せずに、哲学を人格性を欠いた単なる理論として扱う――即ちモノとして扱う――形式的・分析的なデカルト読解は、たとえ完全に整合的なものであっても隔靴掻痒の感を免れ得ないであろう。デカルト研究という学問の必然的盲点である〈語られざるもの〉あるいは〈語り得ぬもの〉を感じ取り、それに準拠しなければならない。語られた言葉をいくら並べ替え組み立て直してみても、恣意的な再構築を繰り返すことにしかならないのである。近代的な学問理念を妄信してはならない。【拙稿「デカルトと死の修練」】

 

ここで言うライフ(生)とは、心身合一の生であると共に、身体から区別される魂の生である。――否、より正確に言うと、心身合一的である故に純粋な魂であり得る生であり、死によって限界づけられている故に死を越え得る生である。なお、この逆説は我々にとって恒常的なテーマである。

哲学と哲学研究とはあくまでも別物であるが・・・・・

哲学研究は、学問的(?)であろうとすればするほど、哲学に本質的な〈生との結びつき〉を見失い、それを切り捨ててしまう。

哲学研究者は、哲学を哲学たらしめる哲学と〈生との結びつき〉を敏感に感じ取り、それを明るみに出すのでなければならない。

もしそうすることができるならば、哲学研究は哲学の “創造的再現” であることになり、それ自身が哲学的なものとなるであろう。