根本的両義性(10)――G.モローと神話の世界

 私は1986年の3月にはじめてフランスの地を踏んだのであるが、向こうの寮に着いてから真っ先に訪ねたのはパリのギュスターヴ・モロー美術館だった。ただ、この画家に関して漠然とした関心を抱いていたとはいえ、当時は絵画をじっくり味わい色々考えをめぐらす余裕はまったくなかった・・・・・。

昔日のそんな思い出を懐かしみながら、モローが描いたファンム・ファタール(魔性の女)をテーマとするNHKの番組を録画で観た。

「現実にはまるで聖女のような女性〔注:母親と恋人を指す〕を愛したモロー。しかし描いたのは〔聖書に出てくるサロメのような〕魔性の女、ファンム・ファタールでした。現実と非現実の二つの世界。まったく違うタイプの女性に惹かれたモローの心情はどのようなものだったのでしょう。」というナレーションが番組の中で流されたのであるが、ゲストの一人であるドイツ文学者の中野京子氏は、描かれた魔性の女は男の人が勝手に妄想したものであって、本当に現実味のないものである。従って女性が見れば余り妖艶ではない。そのようなことを述べたのであるが、それに対して、もう一人のゲスト精神科医きたやまおさむ氏は、現実に家の中の母子関係の中に〔幼少期における〕官能性と妖艶さが残っていたので、これだけ描けたのだと反論した。

しかしどうなのであろうか。そもそも神話の世界というのは現実味のない世界なのではないか。但し現実味がないということは妄想であるということでは必ずしもない。「女性というのは、その本質において、神秘的で未知なるものに夢中となる生き物であり、無意識のうちに邪悪で悪魔的な誘惑に取りつかれてしまう存在なのである。」というモローの言葉が番組の中で紹介されているが、女性の〈本質〉に関するこうした洞察はモローにとっては神話の世界としてしか描けないのである。ということはつまり、神話の世界には固有で独自のリアリティがあるということである。従って、精神分析学の方式によって神話の世界を現実の世界に何らか還元するような解釈にも、私は与することができない。

神を失い科学が過剰に信仰されている現代においては、神話は単なるお伽話になってしまっているのかもしれない。しかし眼に見える世界と並んで眼に見えない世界(神秘)が存在するのであり、見えるものを見る眼と並んで見えないものを見る眼が存在するのである。そして重要なのは二つがうまく組み合わされることである。そのことによって我々の精神は健全であることができるのである。現実の世界(の聖女)と神話の世界(の魔性の女)は、相反するものでありながら、モローという一つの人格の中で統合されている。二つは互いに求め合いながら共存しているのである。

東京で開催されているモロー展にはまだ行っていない。近いうちに足を運び、33年ぶりに作品に再会するつもりである。