デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その12 「考える葦」(下)

デカルトは自叙伝『方法序説』の中で学生時代のことを振り返りつつ、「私は多くのことを知れば知るほど、ますます自分は何も知らないということを思い知った」というようなことを語っているが、デカルトは決して知識におぼれるような人間ではなかった。彼は若い時から、「知る」ということはどういうことなのかという強烈な問題意識を抱いていたのである。

♦ しかしデカルト研究の長い歴史の中で、デカルトにおける知の問題はごく表面的にしか捉えられてこなかったと言わざるを得ない。一般に研究者には、みずから根本的なところから考えるというまさに哲学(者)的な姿勢が欠如しているのである。人々は例えばデカルト的懐疑について、それは方法的懐疑であると頭から信じ込み、デカルト的懐疑に関する伝統的理解についてデカルト的に疑ってみるということを決してしないのである。

♦ ところで、デカルトは第三省察のはじめのところで、我々が明晰判明に認識すること(例えば2+3=5ということ)でさえ疑うことができる(どうしてかはここでは省略する)という主張と、我々が明晰判明に認識することは真であるという主張とを、つまり互いに否定し合う二つの主張を、順次行なっているのであるが、面倒な議論をいっさい抜きにして言うと、是非指摘しなければならないことは、「可能な懐疑を取り払うことができるならば我々は確実な知を獲得することができる」という素朴な考え方を、デカルト解釈に持ち込んではならないということである。

♦ 普通我々は、疑いの可能性は我々を半信半疑に陥らせるだけであると考えている。しかしそのようなことが言えるのは、知の対象が超越性(神秘性)を持たない場合である。つまり、何が言いたいのかというと、疑いの可能性は知を〈超越的なものへの信〉たらしめることができるのである。疑うことができるということは知の有限性を、つまり人間の「弱さ」を意味するが、しかし疑いの可能性は、翻って考えると、神とか美といったいわゆる形而上学的なものだけではなくて、2+3=5ということをも、超越的(神秘的)なものにすることができるのである。

♦ このように、人間の本質的な弱さは逆説的にも人間に崇高さ、ディニテdignité――尊厳(品格)――を与える。一般にデカルトパスカルは対照的なイメージで見られているが、前の記事で示した「考える葦」における「弱さと尊さの弁証法」は、実はデカルトにも存するのである。