根本的両義性(6)

 先日8日に、東京都庭園美術館で開催されている展覧会――『岡上淑子 フォトコラージュ 沈黙の奇蹟』――に出かけた。テレビでの紹介を偶々見たことがきっかけである。岡上のコラージュ作品はすべて戦後間もない1950年から56年までのごく限られた期間に、東京で制作されたとのことである。
 下の写真は「廃墟の旋律Melody of the Ruins」(1951)である。死体の手首や白ネズミなども見られる廃墟の中で、美しい女性が楽譜を見ながら楽器を奏でている。彼方にまで広がる無残な廃墟(背景)と、楽器を奏でる女性(前景)とが、奇抜な仕方で貼り合わされているのである。対照的な前景と背景は水と油のように決して溶け合わない。しかし注意深く見てみると、何と楽器の頭には小さな髑髏が付いているのである。廃墟と旋律は秘かに繋がっているのだ。じっと見つめていると、廃墟そのものから旋律が立ちのぼってくるようにさえ見えてくる。因みに、コラージュのタイトルは「廃墟と旋律」ではなくて「廃墟の旋律」である。
 無残な廃墟と旋律を奏でる美しい女性は鮮やかな対照を成し、しかも調和しない。しかし両者は不思議にもやり取りし合っているのである。これが<現実>というものなのだ。現実というのは本質的に両義的なのである。「桜の樹の下には屍体が埋まっている」(梶井基次郎)というのはその通りなのである。
 東京大空襲・・・そして東日本大震災・・・。こういった悲劇は、たとえ復興が進もうとも、そっくりそのまま存在し続ける。取り繕うとしてはならない。廃墟なしには旋律はないのである。相反する二つは地と図のように分離不可能である。
 両義性を感受することができないと、現実は平板になり、人間は薄っぺらくなる。現実は現実性を失い、人間は人間性を失うのである。

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