根本的両義性(9)――マリアの純潔(下)

 

♦ マリアは言った。

  「主はその腕で力を振るい、

  思い上がる者を打ち散らし、

  権力ある者をその座から引き降ろし、

  身分の低い者を高く上げ、

  飢えた人を良い物で満たし、

  富める者を空腹のまま追い返されます。」

    (ルカ「マリアの賛歌」より)

マリアは社会悪に対して決して寛容であるわけではない。彼女は実に攻撃的である。しかしマリアをしてこのように言わしめるものは何なのであろうか。

先日の池袋の暴走事故をめぐって、事故を起こした人間が逮捕されないのは彼が“上級国民”だからだという憶測が出回っているそうである。世の中の理不尽な不公平、そしてそれを作り出しまた隠蔽する狡猾な欺瞞に対する怒りは至極尤もなものである。ただ、驕りたかぶる権力者・富者を非難する正義感が、良心あるいは良心の根っこにある信仰心(419日の投稿を参照)に基づくものである場合と、その正体がルサンチマンという歪んだ欲望・権力欲である場合とでは、大きな違いがある。一点だけ述べると、後者の場合には、非難する者の自己は他者を否定することによってしか成り立たない自己であり、常に他者によって限定され抑圧されている自己なのである。

しかしとはいえ、法や制度を変えることによって多少なりとも格差を是正することができるならば、即ち多少なりとも不幸を減少させることができるならば、非難の動機はどうでもよいのではないであろうか。然り、政治の観点からいえばその通りである。但し、不幸から救われることは幸福を得ることではないということを指摘しなければならない。幸福とは不幸ではないということではないのである。

幸福とは快適さではなくて、心の奥底にまで届く満足感である。

不幸(例えば貧困)を減少させることは政治の役目である。しかし幸福は政治の問題ではない。幸福は個人の問題であり、魂の問題である。政治の問題と魂の問題はあくまでも区別されなければならない。両者を混同することから思考や議論における混乱が生じるのである。但し両者を切り離してよいというわけではない。むしろ相容れない政治の問題と魂の問題は相互的・相補的であるべきなのであり、両者を然るべく統合することこそが我々の課題であるべきなのである。

マリアは言った。

  「わたしは主のはしためです。

  お言葉どおり、この身に成りますように。」

    (ルカ「イエスの誕生が予告される」より)

こうした神への絶対的服従は魂の絶対的純粋性を意味する。そして冒頭で示したマリアの攻撃性は、それと対立し矛盾するこの神への絶対的服従=魂の絶対的純粋性に基づく――と同時にそれを肉づけする――のである。