デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その8

♦ いつでも好きな時に透明人間になることのできる魔法の指輪を使って、一介の羊飼い(ギュゲス)がついに王にまで上り詰めるという「ギュゲスの魔法の指輪」の話は、プラトンの『国家』篇に出てくるのであるが、人目を逃れ懲罰を免れさえすれば何をしてもよいのだという思いは、もしかして太古の昔から少なからぬ人間の本心なのであろうか。そうであると軽々しく断定することはできないが、しかしそれはともあれ、今の日本国政府では、悪事が暴かれ嘘がばれても平気の平左である、ギュゲスの上手を行く恥知らずが権力をほしいままにしているということは確かであろう。

♦ 恥を知らないということは神を畏れないということであり、神を畏れないということは倫理を無意味なものとしか感じないということである。前回の投稿(6/1)で「神は死んだ」という言葉に触れたが、神というのは倫理や価値の超越的な要石なのであって、神が死んでしまえば倫理は死んでしまう。即ち倫理は近代法と同じく単なる人間どうしの取り決めであることになってしまい、人の生き方の根本に関わるもの(魂の問題)ではなくなってしまうのである。(因みに、私はかつて大学で研究倫理委員会の委員を務めたことがあるが、この委員会では何と研究倫理は個人情報の保護等の問題でしかなかった。大学においても倫理はとうに死んでいるのである。)

♦ とはいえ、神を殺さなければそれでよいというわけではない。無自覚的で無批判的な信仰は必ず党派的な信仰になり、権力闘争と結びついて必ず戦争を引き起こす。実際、宗教は歴史上大きな戦争を何度も巻き起こしたのである。日本人は気安く無神論という言葉を使うが、無神論とは本来、神との壮絶な闘いであり、覚悟を要する賭けである。が、無神論のことはともかくとして、科学万能主義にかぶれた人間による浅薄な宗教批判とは異なる、まっとうな宗教批判が為されなければならない。(人は実は神を欲しがっているのであり、神と対立する民主主義という理念も、かつての天皇のように神格化され盲信される恐れがある。)

♦ というわけで、信仰と宗教批判とを何とか両立させなければならない。超越と超越批判、別の言葉を使うと他律と自律は、如何にして両立させることができるのか。――私はこのような問題意識の下にデカルトの「高邁」を考えているのであるが、ここで一つ指摘したいことは、デカルト形而上学における「神の観念」は、〈私〉の内にあるものでありながら、同時に〈私〉を無限に超え出るものであるということである。(続く)